Radikal紙コラム Haluk Sahin 「トゥルバンに分別ある解決を」
2005年06月22日付 Radikal 紙

トルコのトゥルバン問題は本当に解決する必要がある。近日の一連の出来事は、解決にかなり近づいたこと、広い部分が認められる合意が成り立ったことを示している。エルズルム・アタテュルク大学の卒業式にスカーフを被った保護者が式に来れないという発端の後に、軍人や市民から示されたサインは解決について分別に近づいたことを明らかににした。

分別とは、すでに何度も述べられている:公的空間での「サービス領域」に、トゥルバンを含め、スカーフ禁止を適用できない;「サービスを行う者」には適用される。なぜなら、公的サービスを行う者のまとう宗教的、政治的、イデオロギー的な象徴は、サービスの中立性に疑いを起こすからだ。
この分別は、日常生活に次のように影響する:
公的空間、たとえば病院や役所、裁判所、式典で、サービスを受ける者あるいは参する者として来る国民に「宗教的な象徴を外せ!」とは言えない。
私の考えでは、大学の学生もこのカテゴリーの中に入れるべきである。学ぶこと―知識を得ること―を望んでいるのだ、トゥルバンを被ろうと十字架をぶらさげようと、なぜ彼らが「NO」と言われなければならないのか?
そう、分別的な解決とは、こんなにも明らかで簡単なのだ。
では、それなのに、なぜ実現されないのか?
イギリスの「紳士の取り決めのためには紳士が必要である」という諺は、この今の状況にも当てはめることができる:「分別ある解決のためには分別ある人々が必要ある」
つまりこの問題を本当に解決したいと望む人々…。
これを取り扱うべき傷として最後まで真剣に努力する人々…。
残念なことに、トゥルバンについて最も強行的に見える者たちの本当の目的は、問題の解決ではなく、これをさらに混乱させることだ。そして、そうするこで、この出来事によってポイントを稼ぐことである、当然のことながら
一方で、世俗的派は、トゥルバン問題で達する分別ある解決が、宗教主義者環境への長い長い「階段戦略」の一段目になることをひたすら恐れているのだ。つまり「合意」と言われているものの「中間合意」になることを遠慮している…彼らは尋ねる:
「問題はこういう形で解消されたら、無くなるだろうか?」
そして答える:いいや、いや無くならないだろう!すぐに『これは不正だ、差別だ、この女の子達がトゥルバン姿で大学に行くことをあなた方は許可する。それなら彼女達がこの服装で弁護士や裁判官になることも許可して下さい』と言い出すに決まっている。ある日それも手に入れたとしたら、そしたら今度は『この国民の99%がムスリムなのに、頭部を覆わないでいることは政治的な象徴だ、頭部を覆わない者は弁護士や裁判官になるべきではない』と言い出すだろう…。さらにはいつか『女性が裁判官になるだと?我々の宗教にそういうことは無い、女性の居場所は家だ、夫に奉仕することだ』という局面に達するまでに…。
迷いごとだろうか? 昨日新聞やテレビでクウェートのイスラーム主義者の国会議員が見せた国の初の女性大臣への目線の中の嫌悪を見ただろうか? イランのムッラー体制が女性候補者を除外するために行った作戦を見ただろうか。この恐ろしい事が全く土台が無いわけではないことを示す事件がトルコでも起きていないだろうか 。
テレビで見られただろうと思うが:エルズルムのスキャンダルの後、自らを「スカーフの自由行進者」と名づけた女性のグループが大統領公邸まで行進した。することはいい、民主主義の権利なのだから。しかし、これだけでは終らず、中に迎えられた二人の代表は大統領アフメト・ネジュデト・セゼルに渡すように一冊のコーランを置いていった。「これを読んで下さると嬉しいです」と言ったと新聞には書かれていた。メッセージはこうだ、つまり「これを読んで下されば、スカーフがコーランの指示だということが分かり、そのような決定をなさるでしょう」つまり憲法や法律ではなく宗教の定めにしたがって行動をする。まずはこの事(スカーフ問題)を、その後には他の問題でも・・・
大統領をトルコをシャリーアの国家であるように扱うように誘っているという事ではないのか、これは?

元の議論に戻ろう:トゥルバン問題を分別ある形で解決する条件が成り立った。もちろんこれは「中間合意」ではなくて、本当の合意にするにはあらゆる立場からの承認というのが条件だ。



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( 翻訳者:池田 慈 )
( 記事ID:335 )