Altan Öymen コラム:なぜ「フォーク」について語るか?―「右手で食べよ」のハディースに思う【下】―
2007年03月03日付 Radikal 紙

「フォークと手」についての私のコラムには少なからざるコメントが寄せられた。問題を重要だと考える方もあれば、他愛のないことだとして、私に「こんな些細なことにどうして血相を変えるのか?」とおっしゃる方もいる。
そもそも、私にしても、このようなことを真剣に捉えるべきではないと思っている。けれども、イスタンブル県宗務局のような国民にとって大きな影響力をもつ機関は、そうは考えていない。この問題を説教に取り上げた。説教原稿を書く役を担ったイスマイル・イペキ氏は「ナイフを右手に、フォークを左手に持ちながら食事するのはふさわしくありません。この食事の作法は西洋の習慣です。」と語っている。
ところが、トルコでフォークを右手で使う方々が多いとはいえ、左手で使う方々もいない訳ではないのだ。そのうえ、多くの他の国と同様、わが国の外交儀礼は「左手で」という原則に倣ったものとなっているとのこと。
仮に、宗務局の見解が容れられた場合、このことによる2つの結果が生じる。
①このことに関する外交儀礼を変更すべきと考える人々が出てくる。こうした些細なことがらが、そうなると、いよいよ解決が困難な状態になってしまう・・・。そして、国の最高位の国会議員の間での議論の対象となる。
②より重要なこととして、ムスリムの間に、新たな「区別」(あるいは「差別」)ができてしまう。今までにある区別の要因だけでは足りないかのように・・・。
「フォークを右手に持つ人と、左手に持つ人」と区別すること・・・。そのどちらがより良いムスリムなのかと議論すること・・・。このような議論が引き起こす様々な問題を我々は忘れてはいまいか?

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実際のところ、イスタンブル県宗務局は、説教は「忠告」という性格のものだとしている。これは「宗教的義務」ではなく「スンナ(ムハンマドの言行)」であると明らかにしている。「これは、やらなければいけない決まりではありません。」と述べている。
ただ、その場合、このことについて宗務庁長官さえ「理解に苦しむ」と語った「優先性」を付与して、これを説教のテーマとすることは正しいのだろうか?
トルコ最大の都市に住む1000万人以上のムスリムに説く説教がどれほど重要なものかは明らかだ。
この「忠告」は、モスクに集うコミュニティの大部分にとっては、ムスリムとしての要件とまではいかずとも、「より良いムスリム」に不可欠なもの、と受け取られる。かくして、時を経ずして先に示した二つの展開に結果的にはなってしまう。

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様々な話題のうちこの問題を取りあげた理由はこれだ・・・。この「フォーク・ナイフ」問題をテーマとすることの「障害」を、機を逃すことがないように、あらゆる関連から示そうと考えたのである。今日のこのコラムでその説明を締めくくろうと思う。
まず、第一の「障害」について・・・。この問題を「外交儀礼なのだ、本質とは関係ない、外交儀礼は必要なら変えるものだ。」などと、軽んじないでおこう。トルコ共和国の公式の饗宴は60~70年にわたってこの礼儀作法にしたがって催されてきた。
わが国の首脳はが国外で参加する公式・非公式の饗宴の大部分はといえば、この作法にのっとっていて、それ(→饗宴の形式の伝統)はより古い。この作法は、少なくとも150年前以来採用されてきた。我々の作法が、ましてや「グローバル化」時代に逆行するものであれば、それが「実際」に巻き起こすことになる混乱に思い至るのではなかろうか?
トルコにおいては、国の機関に属する全ての者たちを、この作法に慣れさせるために、数十年にわたって極めて多数の出版物を世に出してきた。そのようななかの一冊が私の手元にある・・・。外交官であったズベイル・アケル氏が1960年代に執筆した『外交儀礼の決まりごと』という題の書籍である。その他の色々な儀礼とともにアケル氏はこう記している。
「ナイフを右手、フォークを右手に持ち、食べる一口分を切り分け、切り分けられた小片を左手のフォークで口へと運ぶ。その後はそれを繰り返す。女性が左手を膝に置いたまま右手(のフォーク)だけで食すのは、アメリカの家庭に存在する作法である。但し、彼女らもこの作法をやめようと努めているところである。」
(ここに至って、説教原稿の執筆者であるイスマイル・イペキ氏が言う「フォークを左手に持つのは西洋の習慣で、右手に持つのが我々の習慣である」という論法は、議論の余地ありということになる。アケル氏が指摘したように、この右手にフォークを持つという作法は、西洋諸国のひとつであるアメリカでも普通の食事作法なのだ。)

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そう、問題は外交儀礼の面から見ると一筋縄ではないかない・・・。しかし、外交儀礼という問題は脇に置いておいて・・・。ムスリムである国民の間で、少々のこのような「生き方の違い」を「宗教的問題」にしてしまうことが持つ「障害」は微々たるものだろうか?(いやそうではないだろう)
違うことは至極自然なことだ・・・。男性があごに髭を蓄えたり、口髭を生やしたり、あごにも口元にも髭はなかったり・・・。そうしたい人はそれぞれのやり方で髭を伸ばす・・・。女性がスカーフを被ったり被らなかったり・・・。スカーフを被る場合はそれぞれのやり方で被る。誰にも他人をそんな理由でとやかく言う権利なぞない。
しかし、そういった人々を「宗教的にはこうするのが正しく、ああするのは正しくない」と評して議論の対象とすることがもたらす結果は明白である。
トルコでは、このような諸問題について実際に存在している「違い」から生じる問題に問題を付け加えることではなくて、むしろそれらの問題を減らすようなことが必要なのである。
人々が自らの信条にしたがった生き方を続けながらも、他人の生き方に理解と敬意を払うことをないがしろにしないこと――それが必要なことのひとつである。
思想の面と同様、信条の面でも、長い年月を経るうちに、明確なバランスができてきた。そういったバランスを損なうことのないように気をつけるのは皆の務めだ。勿論、真っ先に宗教指導者の務めなのだ。

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この見地からすれば、宗務庁のアリ・バルダクオール長官が当の説教について行った会見は見事である。先のコラムで触れたが、こう仰ったのだ。
「我々の日常にはより重要な事柄があります。優先すべきものとして(挙げられるのは)、校内暴力に対して我々に何ができるか、ということです。この問題について我々は議論すべきなのです。」
(以下略)

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:10308 )