Cuneyt Ulsever コラム:公正発展党(AKP)分析 -1-
2007年05月22日付 Hurriyet 紙

トルコにおける民主主義の基本的問題の1つは、1950年以来政治の“駒”がしばしば居場所から移動することであり、移動すると元の場所になかなか落ち着かないということである。
実際、駒は1990年代にさらに1度移動し、未だに本来の場所に定着していない。

政治の古典的な鋳型によれば、我々は政党を頭の中で作り出した真ん中(中道)の右と左に置いている。中道に最も近い政党が中道右派と中道左派を構成し、一方が経済成長に、もう一方が所得分配に置いた相対的重要性によってこれらの政党の一般的な性格が定義される。この定義によって、一方が自由民主主義政策、他方が社会民主主義政策の重視の下に政治を行う。しかし、中道のすぐ隣で形成されるこれらの政党は、「民主的な」という形容詞とバランスをとり、緊張を拒絶する態度も身につけている。この理由から、(左右)両極にいる反対勢力は、これらの政党を「システムの政党」とみなしている。

私の考えではこうだ;トルコには未だに中道右派政党も中道左派政党もない!
AKPは中道右派政党になれなかったし、共和人民党(CHP)も中道左派政党になれなかった。

しかし、今週私は自分自身が必要と感じることからAKPの分析に努めることにする。

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2002年の時点で、トルコの中道右派は、両雄メスト・ユルマズ(祖国党(ANAP))-タンス・チルレル(正道党(DYP))があらゆる倫理的価値を重視しなかったため再度無力化した。
一方、AKPグループは、レジェプ・タイイプ・エルドアンが(1997年)2月28日以降味わった敗北のもたらした風も背に受けて、ミッリーギョルシュ路線から離れる主張をしながら姿を現してきていた。AKPグループはその懐から出てきた「ミッリーギョルシュのワイシャツ」を脱ぐことを宣言し、現実世界の条件に合った活動をすることを約束、ネジメッティン・エルバカンの妥協しない政策が国を恒常的な「政府への警告」を受ける状態へと導いたとはっきり宣言していた。

AKPは、中道右派の新たな候補として現れ、「2月28日」後に民主主義の風を背に受けて政権党となった。採ってきた政策を、自分たちが作り出し、その実情とは合わない「保守民主的」という言葉によって言い表した。
政権の最初の2年で積極的な親EU姿勢を打ち出しながら中道右派の座に就くであろうという印象を生み出し、また国内外で合法性を獲得する努力をした。

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しかし、2004年3月に行われた地方選挙と2004年末にEUから伝えられた加盟交渉開始の期日は、AKPの短い歴史で転換点となり、AKPはそのルーツへと回帰する過程へと入った。
AKPは、2002年選挙では、新しい政党としてまだ組織化されていなかった。党について疑念が投げかけられていたが、その努力も興味を持って見守られていた。
AKPは政治組織として2002-2004年の間の組織の基礎固めを始めた。2004-2007年の間には骨格を組み立てた。今建物は建ったがこの建物は中道右派の基盤の上には建っていない。なぜ?

ミッリーギョルシュは、トルコの組織力の最も高度な政治的形態の1つであり、その基盤の組織化においてレーニンの「毛細血管理論」を最も忠実に実行している組織である。
通りごと、アパートごと、家ごと、個人への訴求とプロパガンダ(の流布)において大成功を収めている。
ヒズブッラー、ハマス、ムスリム同胞団といった類似の組織同様、「街区政治(地域密着型政治)」を広めることに非常に長けている。
「街区政治」は直接のプロパガンダの代わりに「社会政策」を前面に掲げる。保健、教育、食料などといったテーマに手を差し伸べる。頭より先に心に訴えかける。この政策は、とりわけ国家の社会政策が届かなかった都市周縁部や農村地域で成功している。

2002年の総選挙にミッリーギョルシュ以外に中道右派からも人を集めて参加したAKPでは、2002-2004年の間にミッリーギョルシュ出身者が中道右派の人々を特に農村の下部組織から排除し、2004年の地方選挙でほとんど全ての市町村役場を手中に収めた。ミッリーギョルシュ出身者が全ての組織を影響下に置いた。

すでに表で何が行われようと、AKPの組織はミッリーギョルシュに引き渡されたのだ!

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公正発展党(AKP)分析 -2-

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10973 )