国営放送における大衆迎合主義
2007年10月09日付 Hamshahri 紙

【アリー・エマーディー】ラマダーン月の連続テレビ・ドラマをめぐる「ナゾ」はここ1~2日のうちに解き明かされる予定だが、その一方でイラン国営放送にとって、これらのドラマシリーズの外部で起こっている複雑に絡まり合った問題は未だに解けないままとなっている。

 ラマダーン月の連続ドラマは、毎晩のように視聴者の気持ちをやきもきさせ、〔ラマダーンという神聖な月にもかかわらず〕放送時間ともなると多くの視聴者をテレビの前に釘付けにしてきた。さらにこれらのドラマの内容も問題視されてきた。このような事情から、ラマダーン月に放映されるテレビ・ドラマは常に批判を招いてきた。

 しかし今年のテレビ・ドラマに限っては、こうした批判の声はこれまで以上のものとなっており、一部のウラマーによってテレビ禁止令が出されるのではないかとの噂が聞かれるほどである。イラン国営放送は数カ月前から〔ウラマーの団体である〕ゴム講師協会から、神聖なシャリーアに対する配慮を欠いているとして警告を受けていた。

 一方宗教指導者の他にも、社会の各界で活躍する文化人らもテレビの番組制作のあり方に対して、様々な方法で抗議の声を上げてきた。ところが我々には批判能力というものが極めて乏しいため、これらの批判はむしろ特定の個人や集団に対する「攻撃」であるかのように理解されてきた。

 ところで、殊今年のラマダーン月の連続テレビ・ドラマに対する批判が強まった背景には、イラン国営放送が悪しき方法で捕らわれている、ある害悪の拡大を指摘することができよう。その害悪とは、すなわち「大衆迎合」という現象である。

 実のところ、これら全ての抗議の声の中心にあるのは、テレビ界は番組制作の際に「思想」というものをほとんど活用せず、あらゆる問題に関して独善的な物言いをするまさに大衆のように、ろくな調査・検討もせずに、作家や監督の個人的な意見、はたまたディレクターの趣味に基づいて、さまざまな分野で番組を制作しているという指摘である。

 このような大衆迎合主義はドラマの制作過程にも及んでいる。ラマダーン月、ノールーズ、ムハッラム月のような〔特別な〕時期がいつなのか前もって明らかであるにもかかわらず、テレビ関係者たちはやっつけ仕事で番組を作り、「思想」に依拠するかわりに自身の一瞬の感情に任せて仕事を進めることを好む。そればかりか、このことを誇らしげに語ってさえいるのだ。国営であることを自慢しているわりには、国営メディアとは特定の個人や集団の感情・趣向の発露の場ではないことに気が付いていない。

 国営メディアから発せられるべきは、〔個人的な趣向・感情などではなく〕国家体制の最終的な政治的・文化的・社会的立場であるべきだ。

 「零度の回帰線」のようなドラマ〔※2007年にイラン国営放送が作成したドラマで、第二次世界大戦前夜にフランスに留学したイラン人が当地のユダヤ女性と恋に落ち、ナチスの迫害から守るというストーリー。アフマディーネジャード大統領の「ホロコーストは神話」発言との関連で、イラン内外で話題になった〕やハーレ・エスファンディヤーリー、キヤーン・タージバフシュ、そしてラーミーン・ジャハーンベグルーの告白を取り上げた「民主主義の名の下に」の放送に対して海外メディアが示した反応を見ても、このことは明らかだ。また、選挙や「世界エルサレムの日」のような重要な時期に、国内で行われる政治的プロパガンダの例を引いてもいいだろう――実際、これらは国営放送の各チャンネルで大々的に取り上げられている――。

 社会の指導者たちが、知の中心たらんとするテレビというメディアの番組制作において、これほどまでに大衆迎合主義が蔓延しているのを目の当たりにしてショックを受けているのは、まさにこのような理由によるのである。

 通常、イラン国営放送の責任者たちは「思想」という領域に対して関心を払ってこなかったことへの主な弁解として、制作費が膨大になること、〔新たな〕チャンネル〔を立ち上げる〕には莫大な費用がかかることを挙げている。

 しかし、イランほど国営チャンネルが拡充されているところなど、どこにもない。ところがイランでは競争相手〔となる民間テレビ局〕が存在しないにもかかわらず、国営チャンネル間で競争が強いられるのである。まさに現在起きているさまを見れば分かるように、どのチャンネルも思考を刺激するというテレビのあるべき側面を逸脱して、より多くの視聴者を獲得しようと視聴率の獲得に奔走している。チャンネル間の競争は本来、議論の余地のある疑わしいものであるにもかかわらずだ。もし民間チャンネルが存在しえないのであれば、国営チャンネルの間で競争をしなければならない理由もないはずだ。

 いずれにしても今のところ、国営放送と社会の指導者との間にできた溝を埋める機会はわずかにしか残されていない。

 現在、様々な文化的・社会的機関から国営放送に対して出される警告の数は、日に日に増している。理性を活用し、大衆迎合主義から距離を置くことが、この溝を埋めるためには必要である。

 この複雑に絡んだ問題をやさしく手で解きほぐすためには、熟慮が必要である。それを怠るならば、絡まり合った問題を――あまり愉快なことではないが――「歯で食いちぎる」といったことになるかもしれない。

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( 翻訳者:中根敦 )
( 記事ID:12362 )