Ali Bayramoglu コラム:民主主義にとって恥ずべきAKP解党訴訟
2008年03月15日付 Yeni Safak 紙

ニュースは、最高裁判所のアブデュルラフマン・ヤルチュンカヤ主席検事が「公正発展党(AKP)が世俗主義に反する活動の震源であるという理由により閉鎖を求めて裁判を起こした」と伝えていた...

通信社から来たこの文章を読んだとき、私はしばし唖然とした言わなければならない...

今回のことほど私をこれほど驚かせることも、国家の構成要素や高等司法機関が不合理さと無力さにおいてこの地点に到達していることを考えさせられることも他になかった。

こんなことがどうして起こりうるのか?

わずか6カ月前に47パーセントの得票を得て政権に就き、今日行われた世論調査で少なくとも同じだけの(支持)票を得ている政党について、おかしな理由により閉鎖の裁判がどうして開かれようか?

根本的に言っておかなければならない唯一のことは次のことである:

今日我が国で生活している2人に1人の票を得ている政党に対し、不明確できまぐれな理由により起こされた裁判は、本質的に民主主義に対して起こされた裁判である...

政党は民主主義の基本的な要素である。この要素を破壊することは、たとえ検事と裁判官の手によってであっても民主主義を破壊することを意味する...

主席検事はAKPが反世俗主義活動の震源となったと言っており、おそらく(AKPの)行った憲法改正のことを取り上げているだろう。

しかし今回の憲法改正では、世俗主義という言葉も出なければ、世俗主義に関する修正もない...

改正点は自由の領域を広げている。

第10条に行われた変更は次のものだ:国家機関と行政職員は、全ての手続きにおいて、また「全ての種類の公共サービスを受けること」において法の下に平等の原則に適する形で行動しなければならない。

第42条に対してはといえば、次の補足が付け加えられている:

「法において明文化されていないいかなる理由により誰も高等教育を受ける権利を行使することを妨げられない。この権利の行使の限界は法によって明らかにされる」...

これらの条項のためなのか、自由の領域が拡大されたためなのか、AKPは閉鎖訴訟と直面することになりそうだ。

これをどのような知恵やどのような理屈、どのような良心で説明できようか?

具体的な危機的要素もないのに自分の手で自分をプレッサーにかけるとは一体どのような国なのか?

大方において検事や裁判官が自らの主観的なイデオロギー的考えの持ち主であることから、この枠の中での彼らの空想上の体制闘争のため、また法から力を得て国家を経済的、政治的、国際的な代償が高くつく、安定を損なわせるようなこのような状況に押し出すのは、一体どのような高等司法システムなのか?

しかしそういうことが起こっている...

ほんの数日前に行政裁判所のタンセル・チョラサン主席検事は、背中に染みのあるトルコの首相と大臣の処刑を事実上承認するという形の発表を行ってはいなかったか?(1960年)5月27日革命のための「革命」の定義を持って来ようとしてはいなかったか?

不合理さ、反安定、社会を法に合わせようと努める裁判官政府...

好きなように定義して頂きたい...

最終的に破壊されるのは民主主義だけでも、安定だけでもない;司法も破壊され、公正への信奉が失墜させられている。

はっきり言って状況は、その踏み出された一歩の不合理さや頑迷さ、時代錯誤さがセゼル(元大統領)の裁判官用語を思い起こさせる。1930-1940年代のケマリズムへの回帰を想起させる...

実際(ビルケント大学の政治学者である)エルグン・オズブドゥン教授が「最善かつ最も確実な方法は国民を閉じ込めることである。宇宙から国民を連れて来ることである...」という言葉とともに決定を下した最初の反発は皮肉である。

にもかかわらず世界もトルコも1940年代にいるわけではない...

一日また一日と民主主義を身に付け内部化する道を進んでいる...

憲法裁判所が閉鎖の決定を下さないことは明らかだ...

それとは逆に、我々の考えがこうであるために、起こされた裁判に対して表明されるであろう反発は民主主義の成熟において、また禁圧的な論理が暴露されることにおいて、国家が新しい段階に到達する基盤となるであろう。

4月27日と7月22日の間にあったことのように...

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:13368 )