Taha Akyol コラム:大統領を容疑者と呼ぶ司法の愚
2009年05月22日付 Milliyet 紙

スィンジャン重刑裁判所の決定は明白だ:ギュル大統領をエルバカン首相に関する「1兆リラ紛失問題」に関し裁こうとしている!
決定では、5回も「アブドゥッラー・ギュル容疑者」と強調している!以前にも、同様の決定をして、「首相を破滅させた裁判官(hakim)は私だ」と誇っていたこの裁判官が、大統領についても、5回にわたって「容疑者」と強調するとき、同様の喜びを感じたのか、これは勿論分からない…。しかし、次のことは確実だ:トルコ共和国には、ついに「書類偽装」の罪で「疑いのある」大統領がいるのだ!

わが国では司法は独立していなかったか?!

司法は、与党を閉鎖でき、与党の最高権力を持つ人物らを絞首刑にでき、刑を宣告することができ、立法と行政組織の権限をすら「強奪」することができる!…どうしようもない! なぜなら、最後の言葉は司法のものであるからだ。大事なことは、司法の決定が自由であることだ。トルコでは、司法は自由であり、独立している。
トルコにおける大きな問題は、司法がどの程度中立であるかという問題である!その手にあるこの大きな権力を、どの程度中立に用いるのかが、問題なのである。

■これこそが司法だ

我々がその一員になることを望んでいる「西洋文明」のメディア各社も、スィンジャンの判決には驚いた。彼らが驚かずにはいられようか…。
「民主的左派」のヒクメト・サミ・チュルク教授はこう説明する:
「ジャック・シラク元フランス大統領は、彼がパリ市長だった時代のある業務のため、不正で告訴された。フランス裁判所は、 大統領の職務を続けている間は、告訴されないという判決を下した。職務を続けている間は手続きが猶予される。職務が終わってから、裁判にかけることができるのだ!」
これが司法というものだ!

国会議員にはなぜ不逮捕特権があるのか?権力分立の原則に従って、司法からの刑罰の脅威にさらされずに、その任務を遂行できるようにするためである…。任務が終われば裁判にかけられる。
大統領には、憲法は、やはり司法からの刑罰の脅威にさらされることなく任務を遂行するようにと、不逮捕特権より更に強い「絶対免責」を認めている。任務に関する罪が理由であれば国会議員は告訴され得るが、しかし不逮捕特権がなくなってから、裁かれる…。大統領にはというと、彼が代表する高貴な価値と職務を理由として、「国家反逆罪」以外では、告訴されることすら不可能なのである!

さあ、裁判官、あなたは立ち上がり、「より小さい」不逮捕特権を、「より大きい」絶対免責を持つ大統領には認めないわけですね!

■司法の政治化

一般的な法原則は、「大原則は小原則を内包する」とする論法である。
それゆえ、憲法第105条は、当然、不逮捕特権をも含んでいる!
ケマリストであった憲法学者の、故ビュレント・タノル教授と、ネジュミ・ヤズバシュオール教授によると、「トルコ憲法学」という彼らの著作には次のように書かれている:「立法は、不逮捕特権に大統領も浴することを認める必要がある」(317ページ)。

実際、「一兆リラ紛失問題」で、重刑裁判所は、金銭について権限のない容疑者を無罪とした。ギュル氏の党内での任務は、金銭的業務には何の関係もなかった。この観点から、刑事訴訟法(CMUK)の第170条2項により、ギュル氏がこの罪を犯したという「濃厚な疑い」についても、言及することはできない。
しかし、ジェイハン判事の決定は、これらすべての法的な、合法の事実を無視し、大統領を、5回も強調して「容疑者」と宣言した。

つまり、司法はまったく誤った判決を下すという点でも、自由なのだ。しかし、トルコでは司法の非中立と政治化が大きな問題なのだ!
エルゲネコン裁判について私が書いたことを、ここでも繰り返そう:「我々は司法を信じなければならないし、司法も信じるに足るよう細心の注意を払わなければならない。」(2009年4月14日付、ミッリエト紙)

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( 翻訳者:林奈緒子 )
( 記事ID:16516 )