Cengiz CANDARコラム:集権(ユニテル)国家は、トルコ民族国家か
2009年08月29日付 Radikal 紙

「クルド問題解決策」にトルコ共和国憲法第3条を持ち出して、こうして「解決策」の行く手を阻もうとするのは、政治的にも道徳的にも正しくはない。憲法のいわゆる第3条は「改正不可」であり、「さらには改正発議も行ってはならない」とされる諸条項に含まれている。

このこと、つまり第3条が「改正不可」で「改正発議不可」であることに触れ、問題の条項に人工の「神聖性の鎧」をまとわせることに意味はない。書物の形となったものにある「改正不可」と「改正発議不可」にある定めは、ただ神聖なるコーランと聖書のような一神教の、もしくはヒンドゥー教、仏教のような信仰組織の聖典に特有のものである。

「神の」(創造)面をもたない、「人の創造」によるいかなるテキストも「神聖性」を持たず、必ず変更できる。とりわけ、トルコ共和国憲法のような1980年9月12日軍事クーデターの産物で、法の観点から不備をもって生まれたテキストが「改正不可」「改正発議不可」のような実生活で決して通用しない「改正禁止論」の心性に逃げ込むことは、憲法の法的論理の点から、民主主義の点から、あらゆる点から認められない性質のものである。

そして、トルコ共和国憲法の「改正不可」および「改正発議不可」とされる条項もいつか必ず変えられるだろう。これを片隅に書き留めておくべきである。トルコにおける民主主義とファシズムの間の戦いの経過が前者に優位となるにつれ、不可避的に問題は、軍事クーデター(遂行者)が実際は自分自身を「不可侵」とするため作った条項に必ず到るだろう。

これは問題の一面であるが、ここで考察を望む実際面、つまり第3条はどのようにいっているのか?
「トルコ国家は、その国土および国民が不可分の一体をなす。その言語はトルコ語であり、国旗は、法で定められた形の、白い月と星をもつ赤地の旗である。国歌は『独立行進曲』であり、首都はアンカラである。」

議題にあがっている「クルド問題解決策」議論で、この条項は議論の的とはなってはいない。首都、国旗、国土、さらには公用語がトルコ語であること、これらのどれひとつとして「改正すべき」という提案、さらには意図がかの議論では生じていないのだから。

さて、なぜ参謀総長イルケル・バシュブー大将は、まったく必要ないにもかかわらず「クルド問題解決策」議論の輪に加わった際、声明の冒頭に憲法第3条を持ち出したのか?

これは、「集権国家-民族国家」議論に関する偏向した解釈からきている。参謀総長もその解釈に明白に影響されている。

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バシュブー将軍によると、憲法第3条の印象的な面は「トルコの国家は、その国土および国民が不可分の一体」であることを明らかにする文言である。「集権国家」と「民族国家」の定義はこの「不可分の一体」で理解されている。

ここで思考をやめるとこうした非常に浅い理解にとどまる。なぜなら、もう1つの「集権国家」であるスペインの1978年憲法第2条及び第3条と国旗を定めた第4条は、われわれの第3条を想起させる。しかしただ想起させるだけである。

スペイン憲法の第2条を見てみよう。「憲法は、スペイン国民の解消不可能な統一性と、すべてのスペイン人の共通かつ不分割の国土に基づいている」と述べ、次のように続く。「これを構成する諸民族及び諸地域の自治権、そしてそれらの間の連帯を承認し、かつ保障するものである。

スペイン憲法の第3条は次のようなものである。「(1)カスティーリャ語は、スペイン国の公用語である。すべてのスペイン人は、これを知る義務とこれを使用する権利を持つ。(2)スペインの他の言語もまた、各自治州において、その自治憲章に基づき、これを公用語とする。 (3)スペインの言語の豊かな多様性は、特別の尊重及び保護の対象となる文化財である。」

忘れてはならないことは、スペインは「集権国家」だということである。「国土および国民は不可分の一体」との理解はそこにも存在し、憲法が基づく基盤となっている。

しかしスペインにおける「スペイン人」の概念は1つのエスニシティを示すものではなく、その意味にはひとつのアイデンティティというよりも「上位アイデンティティ」の性質を持つ。一方で、トルコにおける「トルコ人」はそうではない。そのようには受け取られていない。そこで問題が出てくる。

これら深刻な問題が威嚇や扇動によって押し込められる種類のものでなかったと同様に、現時点では威嚇行動を恐れ、萎縮する人々の数も徐々に非常に減っている。

「クルド問題解決策」と名前を付けたのは、私たちではなく、首相である。「民主的解決」として強調することを望んだとしても、これは核心部が「クルド問題解決策」であるという事実を変えはしない ― この過程にはトルコ建国期の不足と歪みをなくすような働きがある。憲法改正と国民の定義は、おそらく解決過程の最初の議論の対象ではなくて、不可避の最後のそれとなるだろう。

「道中」乗り越えられるべき多くの障害があり、これらのうち重要な部分は「イデオロギー的」なものである。

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たとえば、参謀総長が参考として取り上げたメティン・ヘペル教授のこの問題における見解は、間違っており、同時に問題のあるものである。
この問題における専門家として知られるバスクン・オラン教授によると、「メティン・ヘペル氏は、兵士を採寸して制服を仕立てている。言い換えるならば彼らの心性を彼らの望む形で理論化している。」

メティン・ヘペル氏の見解に関して「学問的観点から恥ずべきもの」だと言う人々もいる。たとえば、イルケル・バシュブー参謀総長が参考とするヘペル教授は、「トルコ共和国が民族的な意味でトルコ人だけの国家ではないこと、クルド人のアイデンティティが1930年代終盤と1940年代初頭に一部の『知識人』だけによって否定されたこと、この姿勢はいかなる時も公式な国家政策とならなかったこと、その後の経過の中で国家が不当に糾弾されたこと、クルド人たちの間で国家に対する不要な敵意が醸成されたこと、そして今日ほとんど国家が問責される段階に達したこと」を主張している。

つまりヘペル氏は、「トルコは国家としてクルド人たちに対する同化を求めなかった」という見解を主張している。バシュブー参謀総長も同様である。

この「見解」ではトルコのクルド市民たちの圧倒的多数を説得できない。彼らが説得されないと同時に、この「見解」はまさに「正義」の反論(を受ける)に値する性質のものである。

この「見解」に反対するには、1925年9月24日に承認された「東部改革プラン」を知ることで事足れる。歴史が曲げられ、ある過去の事実がなかったように振舞われ、もしくは歴史上行われたことと正反対のことが今日説明されては、知識人も存在せず、国も治められない。「東部改革プラン」とこの国でクルド人たちに向けて実施された諸政策がなんであるかは明日言及しよう。問題なのは「1930年代、1940年代の一部の知識人」による仕事なのか、それとも「1920年代以降現れた国家政策」なのか?これに目を向けてみよう。

何年もの間私たちは後者、つまり「1920年代の論理で続けられている国家政策」と衝突している。核心が「クルド問題解決策」である「民主的解決」は、(すなわち)トルコを弱体化させ本質的に「差別的で分離的」であるこの国家政策を変更することは、いわば「国家の変革」を示しているため、今日と未来両方にとって価値と意味を持っている。

この問題を議論していくと、「国家高官」による「集権国家」理解が、「トルコ民族国家」であり、その基調は「多様性は私たちの豊かさである」というスローガンの下での「同化主義」であることがわかる。

そのような「イデオロギー的見解の観点」から、つまり「問題の元」からはクルド問題への解決法は見出されない。

「解決策」と私たちが呼ぶものは実は、80年間の「詭弁」を捨てて国を「解決の道筋」に入れること以外の何者でもない…。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:17312 )