Ismet Berkanコラム:行き詰った諸問題、凝り固まった答
2009年09月05日付 Radikal 紙

最近、頻繁に使われ始めたひとつの言葉が気に入っている。行き詰った諸問題、と呼ばれているものだ。

アルメニアとの私たちの問題は、1993年以来、行き詰った状態にある。
私たちの「クルド問題」は、少なくとも1984年以来行き詰った状態にある。
私たちのキプロス問題も少なくとも1974年から変化はない。
これらの諸問題は、いずれも未解決であるか、あるいは、行き詰まりの奥底から抜け出せず、軟化する気配もないかである。目下、我々が行っていることといえば、「一体、これらの諸問題を解決するために、それらを行き詰まりの奥底から取り出してみるべきなのか、そのままにしておくべきなのか」と議論することである。
しかし、この程度でさえ、トルコでは十分に騒ぎが起こってしまうのだ。次の事がよく分かった:あらゆることが、少なくともそれらが今日おかれている場所や状況に留まることを望み、僅かな変化も我慢できない政治的指導者がいることが。デヴレト・バフチェリである。彼は、あなたが手を伸ばそうとした瞬間、もうわめき始めるのである:「触るな、触れるな、弄るな……」と。
天国のようなわが国で問題が「行き詰って」いるのであれば、これらの諸問題と関連するアイデアも「行き詰った」状態にある。新しい事は一切話されず、異なる見解を述べる事は一切許されない。
我々は問題とともに生きてゆくことに慣れすぎてしまっており、おそらくそれらがない生活は考えられないのだ。
私が今述べたことの反対のことを言う人もいる:一部の人々は、これらの問題が解決されれば、世の中は薔薇色になるというのだ。
もちろん、これらの問題が一切存在しない生活というのもありうる。それらの問題と生きなければならないわけではないし、問題を解決できるのならば、それにこしたことはない。しかし他方で、解決したからといって世の中が薔薇色になると期待してはいけない。
生きてゆくことはこれまでと同じように困難であり続け、我々は日々一層頑張り、毎晩疲れた体で帰宅するということを続けるのだ。一瞬にして我々の生活が驚くほどに良くなるということはないのである。

最後の題材であるアルメニア―トルコ関係を見てください。
この問題に関して外務省はかなり長い間秘密裏に交渉を進めていた。この交渉の一つの帰結として、両国は議定書に仮調印した。
恐らく見逃されているのだが、アルメニア側はこの議定書が施行されることに伴い、ジェノサイド問題に関し共同歴史委員会の設置を認めたことになるのだ。これは、大変重要な出来事である。トルコとアルメニアの国交平常化、アルメニアとアゼルバイジャンの行き詰まった状態にあるナゴルノカラバフ問題に関して協定が結ばれること…。
この二つの可能性でさえ、ある人々を不安にさせ、怒らせる。この精神状態、このような問題を利用しようとする状況を理解することは本当に出来ない。
しかも、とても先のことを今から話し、早くも問題を袋小路に押し込めようとしているのだ。。
これほどの嫌悪、これほどの敵意を抱く必要は本当にあるのだろうか?

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( 翻訳者:岸田圭司 )
( 記事ID:17380 )