Bulent Korucu コラム:民主主義の首にかかった輪;9月17日
2009年09月18日付 Zaman 紙

[1961年]9月17日は、我々の民主主義史上、最も暗い日だった。血塗られたクーデターによって残忍に殺害されたアドナン・メンデレス首相の処刑日を、私たちはそれにふさわしい形で思い起こしているとは言えない。

ふさわしい形で思い起こす、というとき、それは、嘆きの声をあげることをいっているのではない。あの悲しみを思い出したいというのでもない。残念ながら、私たちはその日を思い起こさなくてはならない国である。この国では首相たちが未だに「私は2つのシャツを持っている。一つは処刑着(idamlık)、もう一つは晴れ着(bayramlık)だ」と述べざるをえないのだ。十分に思い起こさず、しかるべき程度の分析ができていないために、私たちはこの地点にいるのかもしれない。首相を絞首刑にした不名誉では十分ではなかったというかのように、私たちはこの脅迫を政治家たちの頭にちらつかせ続けている。

メンデレスの処刑は、ありふれた政治家殺害をはるかに超える影響力をもっている。そもそも、殺害を計画し実行した者たちの目的もこれであった。あの不吉な写真が政治家の意識下で常に鮮明に残るよう期待された。こうして「節度を超えた者の末路」を知るようにと仕組まれたのだ。

人々は、メンデレスとその友人らの尊厳をすぐに回復させた。彼を継承すると主張する政党に、脅迫や威嚇にもかかわらず票を投じ続けた。しかし、、メンデレスと同様の正義と寛大さを政治家たちが示し得るには、29年の歳月とトゥルグト・オザルの首相就任が必要だった。

(オザル政権下の)1990年にメンデレスの墓所の移設に参加した何十万もの人々の存在は、復権の証となった。(オザル以前に)何年もメンデレスの遺産によって政治を行っていたスレイマン・デミレルとその仲間は、墓所を移設しなかった、あるいは移設できなかった。彼らは、さらに、積極的な役割を果たした[1997年]2月28日のポストモダン・クーデターを正当化し、エルゲネコン組織を擁護するために、(メンデレスの)民主党を非難することすら試みた。彼らとクーデターを称賛する者らへの返答を、メンデレスの息子であるアイドゥン氏が『アクシヨン』誌に寄せた。

「彼らの人格の一部は、共和人民党的である。諸条件が変わると、彼らの政治思想の化けの皮ははがれた。彼らの告発を批判ととらえるなら、私はこれを殊更、重視はしない。しかし、彼らのこのやり方は批判という次元を残念ながら超えている、特にいくつかのメディア機関のそれは。彼らは『我々はメンデレスを絞首刑に処した、おまえもそうする』といっている。これは、クーデターや絞首刑を使った現政権への脅迫である。別の点では、未だに恥じることなく『我々が1960年クーデターを実施させた、我々が3人を絞首刑にさせた』と言って自慢し続けている。これは、それらのメディアの所有者たちにとっても、恥ずべき状況だ。現在、人々は『我々はこの映画を二度、見た』といいだしはじめている。いや、この映画を二度とくりかえさせてはならない。」

処刑着と晴れ着というシャツの表現は、故オザルも使っていた。残念なことに、オザルも、現在同じ言葉を繰り返しているタイイプ・エルドアンも意味なくこれを述べているのではない。トルコは、クーデターを懐かしむ者から解放されてはいない。この21世紀に、テレビ画面でクーデターは合法だったと擁護する知識人たち(!)を私たちは見ている。ある高等裁判所で主任検事の立場にある法曹人(!)は、60年クーデターを人々はお祭り気分で受けとめた、と主張している。民主主義の支持者は、これほど無責任かつ声高に自らの見解を弁護できていない。

すべてのクーデターの原点にある60年クーデターを清算することなしに、またそれを相応しい形で裁くことなしに、民主主義が定着するとは思えない。メンデレスの最期は、クーデター支持者らがトルコ国民や政治家の意識下に植えつけた威嚇である。それを抜きとり捨て去ることなく、この土壌から実りを得ることはできないだろう。私たちの首にかかった絞首刑の輪を取り除かなくてはならない。私たちは9月17日をこうした視点で見る必要がある。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:17485 )