Cengiz Candarコラム:シリアの砂漠の中で1915年4月24日をおもう
2010年04月25日付 Radikal 紙

4月24日17時、この文章をシリア砂漠の中心近くのある場所で書いている。イスタンブルで初めてトルコ人の4月24日記念がどのように結論づけられるのか、またどのような結果となるのかについては何も知らない。タクスィム広場での集会は19時に始まる予定であった。ハイダルパシャ駅で昼に行われた集会は比較的「何事もなく」済んだことを知った。オバマ大統領が何を言ったかも私は何も知らないし、興味もない。

シリア砂漠で先へ進む際、イスタンブルのアルメニア人の兄弟にメッセージを送った。そして「今砂漠でデリゾール周辺を進んでいる」と知らせた。「ハイダルパシャ駅で彼らが出発したところから、終点の地へメッセージを
送ります」という返事が来た。

デリゾール、より正確にはデイル・エッゾール(ダイルアッザウル)はシリアの中東側に位置し、全体的に砂漠からなる県の名前である。ユーフラテス川とイラクの方向に広がっている。1915年の「強制移住」はアルメニア系オスマン人を居住していた場所から、その家々から「戦下」と「軍事的理由」によって立ち退かせデイル・エッゾールに移送するという決定であった。1915年4月24日、議会のメンバーや国会議員を含むイスタンブル在住の著名なアルメニア人知識人や要人がハイダルパシャ駅から出発させられた。その数は220人であった。そのうち139人のその後は誰も知ることはなかった。1915年5月24日付で「国外追放」の決定が出た。アナトリアのまさに全域から、つまり「(戦火の)最前線」とされまた彼らが多く住んでいた東アナトリアのみならず、トラキア、西アナトリア、中央アナトリアから100万人近くが(「国外追放」決定の一番の責任者であるタラト・パシャの記録によると924000人強)ディル・エッゾール(デリゾール)にへの移住のため追放された。「出発した場所(ハイダルパシャ駅)から終点の地へメッセージを送ります」の意図はつまりこうである。「終点」に近い場所にいる私がこの文章を書いている。

アレッポからテドムル(パルミラ)に行く際、ダマスカス方向への移動中に距離を確認した。アレッポとテドミルの間は335キロメートルだ。イスタンブル、アンカラ間の距離とほぼ同じである。アレッポからダマスカスの半分の地点にあるのがホムスである。ホムスで南、ダマスカスへ向かって進む、または、東へ曲がる。そこから真っ直ぐ800キロメートル行った先にバグダードがある。テドムルとディル・エッゾールはこの道の上にある。

ホムスの交差点から東に曲がってから15分から20分後、耕作地の最後の残部が地図上から姿を消し、砂漠が始まっている。ある場所では細かい砂、大体は固い大地にまばらに生える荊がある他に何もなく、視線が地平線まで届き行く砂漠である。太陽は真上にある。四月でさえ焼けるようである。この土地で歩くことはサソリやムカデ、蛇に出くわす可能性があるという考えが私の脳裏によぎっている。この2010年の4月24日という日に。
同時に、望もうと望むまいと1915年の4、5、6、7月の状況を考えている。道を進むごとに、道路標識もまばらになってくる。二つの行く先が書かれた標識がある。上にはディル・エッゾール、下にはパルミラと書いてある。ディル・エッゾールへはまだ200キロメートル強ある。草も生えない、暑さでひびが入っている砂漠の地面を見て、運転手に「ディル・エッゾールの周辺はこの辺に似ているのか」と尋ねた。運転手は「とても似ている。ほとんどここと同じだ」と答えた。この地ではパルミラオアシスの他に何十キロ行っても変化が起こる可能性はない。ここは砂漠なのだよ、砂漠。
砂漠を見ている時、再び1915年と4月24日が頭をよぎった。千巻分の証拠書類を積まれても、今日この場所を見た後では私の考えはもう変えることは出来ない。その日に、1915年の夏に人々が何百キロメートルも先から追い立てられ、女、子供、老人とここに送られたことは「軍事的予防措置」としては全く説明できない。。送られた人々を壊滅すること!これのみがその説明となり得る。今日でさえ集団で、更に6月7月でなく、4月に何万人という人をここへ歩かせようとすることは、壊滅させることを意味している。これはディル・エッゾールを見なければ理解できない。もしくは、ディル・エッゾールがある地域を見れば本当に良く理解できるだろう。
人々がその当時の過酷な条件の中で水の不足や空腹から死ぬこと、あるいは盗賊に襲われて殺されたことを、もし「あること」がなかったという証拠であると言うのなら、これほど多くを述べる必要はない。この辺りを目にすれば、ここへ来れば「死ぬために送られてきた」ことを理解するのは難しくない。
では、救われた者はいなかったのだろうか。あらゆる困難にもかかわらずいたそうだ。ディル・エッゾールに来た者たちはあちこちに散ったそうだ。今日、「ディアスポラ」と呼ばれているものはこの「生存者」の末裔である。1日前にアレッポの旧市街で開いていた店で私はアレッポのアルメニア人たちと深く思いやりのある会話をトルコ語でした。アレッポのアルメニア人の大部分はマラシュ、キリス、アンテプ、チュクロヴァの出身者である。デリゾールに着いた後、アレッポに住み着いた人々である。トルコの現在のアルメニア人総人口の3倍以上のアルメニア人がアレッポで住んでおり、トルコ国外のアルメニア人の中でトルコに対して無条件に共感を示している最大の、いや恐らく唯一の人々である。夜に街で一番のレストランの一つのカンタラで食事をしている時、アレッポのアルメニア人の一人がトルコ語の歌を歌っている。根っからのゼキ・ミュレンのファンである。4月23日から24日にかけての夜中、翌日、4月24日に関係のあることは全く話題に上らず、和やかな雰囲気を私たちは共有している。4月24日にアレッポのアルメニア人はただ店を閉めて、クラブや協会に集まって4月24日の記憶を継承して威厳のある形でその苦しみを自分たちの間で分かち合っている。毎年このように行っているそうだ。そして私はこの4月24日、ひどく暑いシリア砂漠の真ん中のデリゾールに近いこの場所で文章を書いている。

この目で見て学んだ。そして、私が知っていることをもう一度固い信念を持って繰り返す必要を感じている。トルコ人とアルメニア人、イスラム教徒とキリスト教徒は必ず4月24日に関して和解する、つまり「永久の平和」に到達する道を見つけなくてはならない。
私が述べたように、私はこれを知っていたので、4月24日にデリゾール周辺にいる必要はなかった。しかしこの信念は、ディル・エッゾール近郊で4月24日以外の如何なる時もこれほど強く感じられることはないかもしれない…

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( 翻訳者:清川智美 )
( 記事ID:18958 )