Devrim Sevimay コラム:ハサン・ジェマルとのインタビュー
2010年05月09日付 Milliyet 紙

結果として、全く疑問の余地はないが、民政が優勢を示すようになり始め、かつての軍人の不可侵権(軍人の特権)がなくなり、ある意味、法の優位または自らの法に従うという認識が弱まっている時代に私たちは生きている。これは、軍―民関係において、民主主義の観点から、転換点というべき重大な変化です。背中に「ミッリー・ギョルシュという衣」をまとう人々、こうした人々が生活の一部分において「私たちが依拠しているのはイスラムです」と言いながら政治を行ってきた。彼らは急進的であった。そしてこれらの人々の急進さは90年代前半まで続いた。

今週の水曜日(5月12日)に発売されるジャーナリスト、ハサン・ジェマルの著書『トルコの軍部問題、軍人たちよ、政治に介入するな!』から、昨日(8日)は、何箇所か重要な部分を引用した。今日(9日)は昨日に引き続き、トルコの重要課題の一つともいえる著書のタイトルについて、ハサン・ジェマル氏へインタビューを行う。

―ご著書に、「トルコ共和国は一種の株式会社であり、これらの内51%は、勢いのある勢力(軍)のものである』という表現がありましたが。
―なぜならアタテュルクをはじめ、オスマン帝国の滅亡、崩壊を経験し、このことから教訓を得た軍人たちは、『この国家の所有者は我々である。我々はこの共和国を必死の思いで建国した。この国家は分裂してはならない』と言っているからです。(彼らは国家の)分裂という大きな恐怖を抱えています。バルカンではばらばらになる分裂を経験し、コーカサスからやってきてアナトリアに身を寄せたのです。そのこともあって、『この体制および領土の所有者は我々である』と主張するまでに至ってしまったのです。よって51%というのもそこに由来しています」

■ 制度的変革が必要

―ではあなたのお考えでは、51%はいまだ軍のものとなっているのでしょうか?そうでなければこの割合は変化しているのでしょうか?
―変化し始めました。しかしながら、全てが変わった訳ではありません。本当の意味での51%が変わるためには、1.制度的な変革と、2.思考の変革が必要となります。思考を変えるということが何を意味しているかと言うと、軍人養成と教育方法を変えることです。軍・民の間にこれ程までの壁をつくり、文民をこれ程までに信用せず、また文民を、愚かな、支配されるべき集団として捉えさせる、現行のこの養成方法を変えることが必要です。もし、私たちが民主主義というものを唱えるならば。

―ということは、軍部は『デヴ・クルト(国家救済計画)』の実行をまだ諦めてはいなかったのでしょうか?
―私は彼らが諦めたとは言えませんが、トルコにおいてはもう、明らかな形でクーデターがなされる時代が終わったと信じています。結果として、全く疑問の余地のないことでありますが、民政が優勢を示すようになり始め、かつての軍人の不可侵権(軍人の特権)がなくなり、ある意味、法の優位または自らの法に従うという認識が弱まっている時代に私たちは生きているのです。これは、軍―民関係において、民主主義の観点から、転換点というべき重大な変化です

―この時代が始まったきっかけは何だったのでしょうか?
―2004年、キプロス問題によって始まったということができるでしょう。軍部の中で何らかの企てを行っていた中心勢力が、「キプロス対する『アナン案(2004年の国連事務総長による包括的合意案)』は、キプロス売却を意味する」と述べたことに対し、はじめて民政つまり政府は「いいえ、私はそのように思いません」と述べたのです。参謀総長ヒルミ・オズキョクも配下の司令官らに向かい、「我々は自分たちの意見を述べた。しかし、立憲制を取っている限り、最後の決定は彼らが下す」と述べました。
このように、この事件と同時に「崩れ」が起こりました。その後に、EU基準に合った法、テロとの戦いに関する法の一部改正、国家安全保障評議会(MGK)体制の変革などがありました。しかし、当然のこととして、本質的な「崩れ」はエルゲネコンによって起こされました。初めてトルコで軍は不可侵権(特権)を失い始めが、これは人々が見ている前で起こりました。「4月27日(2007年)の軍の警告」に逆らったこと、すなわちエルドアン政府が立ち上がり、大統領に関する問題で(軍に対し)一歩に後に引かなかったこと、47%の獲得票と今日まで長引いている直筆署名問題すなわちバルヨズ計画と、先日議会を通過した憲法改正案…

■ 貶めるためか否か

―ご著書のある章では、他国の例を挙げながら、「軍部を政府から乖離させるために、大きなスキャンダルが用いられている。軍部はそのような敗退を経験し、もうすでに何も主張することができない状況に陥っていく。もしくは長い間国家を運営していくと、大方、民衆が望まないような状態になっていく」、という記述がなされています。トルコでもまさに今、あなたがお話して下さったプロセスに関して、明らかに一部は「貶めあい」だといっています。これについてはどうお考えですか?
―貶しめあいが起きていることははっきりしている。しかしエルゲネコン捜査は軍部の尊厳を失わせ、汚すために始められたものではありません。軍部は自分で自分を貶めているのです。トルコにおいて、軍部が法と人権を無視する一連の介入やクーデターを起こすと同時に、自身の尊厳にも自らの手で一撃を加えることになったのです。軍が政治にこれ程までに近く関わったこと、自らの任務ではない政治にこれ程までに関心を持つことは、自身の尊厳やあるべきイメージへ壊滅的な損失を与えました。そして「なあ、お前よ、まるで政党のようにふるまって、国家の中の国家のように行動している限り、こうした事柄は起り続け、これはお前の本来の役目である国家防衛と安全保障に関し弱点を導いてしまう」と言われてきたのです。このことを尊厳の喪失と言うことができるでしょうし、これは本当に、尊厳や人気に壊滅的なダメージを与え、また人々を懸念させているのです。
参謀総長は「これら一連の事は軍部の尊厳をなくさせるための、不均衡な心理的作戦である」と述べています。が、これは違います。その前に自身を省みるのです。軍部は振り返って、自身を見つめなければなりません、自分はどこで間違いを犯し、このような状況に陥ってしまったのだろうかと。ここでは以下のことを言うことが出来ます。このプロセスが表面化したこと、つまり軍部に「軍部よ、政治に介入するな、政治から離れろ」と訴えかけるプロセスが始まった背景には多くの要因が挙げられます。しかし、その中に公正発展党(AKP)の政治意向が存在しているのです。もしこの政治的意向がなかったとしたら、このプロセスも決して進展することはなかったでしょう。

■ 国家の平手打ちを食らった者たち

―あなたはご著書の中でデミレルやチルレル、ユルマズ、その他の人たちが、もともとこうした意向を示すことを望んでいたが、成功しなかったと述べていますね。どうして今、AKPの時代に行われているのでしょう?そうしなければ、この体制では生き残ることができないと知ったために、そうせざるを得なかったのでしょうか。理由は何だと思われますか?
―現在、AKPを構成する指導的役割の人物たち全員がイスラム的政治伝統の出身者です。彼らは背中に「ミッリー・ギョルシュの衣(思想)」をまとっており、生活の一部分において「我々はイスラムに依拠している」と言いながら政治を行ってきました。彼らは急進的な人々でした。そして、この人たちの急進さは90年代前半まで続きました。しかしじきに、彼らはこの急速に変わる時代に、軍部や国家の平手打ちを大いに受けてしまいました。全く、昔の左派たち、クルド人、それどころかかつての理想主義者たちのように。国家の平手打ちを受ければ、だれであれ法と民主主義の権利の重要性を、そしてトルコで、法に背を向けてしまった国家の「かお(正体)」をよく知ることになります。彼らもそうだったのです。

―つまり、これは彼らがよく知っているということなのでしょうか?
―ある点ではそういうことになります。なぜなら(国民による総選挙以外の)別の選挙で出てきても、軍部はたくさんのことはさせてはくれません。キプロス問題の話が出ても、クルド人の問題でも、大学であれこれをしたいと言っても軍部はいつも邪魔をしてきます。外交問題に対処するときでも、絶えず地雷が敷かれるのです。もしこれに対し大きな声を出そうとすると、彼らは通告を出してきます。さらに声を上げれば、クーデターを起こします。クーデター後も憲法の範囲を制限し、赤線を引き、この線を踏み外してはいけないと命令します。現在、これらの解決が必要であると確信し、軍人たちが引いた赤線を、民主主義に反するものと見なす人々が増えてきました。メディアにおいても増加し、ここでは『タラフ紙』の役割がとても大きなものとなっています。これは政治家の中でも増えました。

■ アメリカは「2月28日過程」を支持したか?

―それでは、ここでの要因は国際情勢なのでしょうか?つまり、アメリカとヨーロッパがトルコで軍部との間に明確な距離を置いたことが、その均衡を変えたということなのでしょうか?
―国際情勢の影響もあります。冷戦がずっと以前に集結したことも影響しているでしょう。この意味において、ヨーロッパとアメリカがトルコの軍事クーデターに反対したことの影響もありますし、トルコのEU加盟に向けての道が開かれるためということもあります。
なぜなら、従来、アメリカの支持なくしてクーデターはありえませんでした。このことは当たっているでしょう。「5月27日」、最後に検討しアメリカは支持したのです。「3月12日」、「9月12日」でもそうでした。「2月28日」、明確な形でのクーデターは、間違いとなると考え、ポストモダン型(新しい形)のクーデターを支持しました。しかし、これら全てを見て、ただアメリカが支持したので、トルコでクーデターが起きると考えたら、それは間違いになります。アメリカは反対しないのです。
―それなら、「国外情勢が整っていなければ、だれもこれ程まで軍部に反発することはなかった」と言う考えには、どのように思われますか?
―こういう考えには賛成しません。私はこのこと(国際情勢)が、それ程まで決定的なポイントになるとは思っていません。トルコで私たちのような多くの人々、イスラム主義者、クルド人、信心深い人、無神論者、右派、左派、理想主義者、全てこれらの人々は軍部の政治介入、そして軍部による支配の被害者でした。この中の一部が、状況を見て、何がどうなっているか理解していました。そして、この衝突は新しいものではありません。トルコには反軍部の衝突、つまり民主主義と法のための衝突の経験があります。もちろん、冷戦の終結以降、アメリカとヨーロッパのトルコに対する見方は変わりました。そして、そのためもあって、どこかアメリカやヨーロッパの見方が、軍が政治と距離を置くことを擁護し始めたのでしょう。しかし、今日われわれが経験している大きな変動はトルコの内部から起こったものなのです。

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( 翻訳者:西山愛実 )
( 記事ID:19072 )