Oral Calislarコラム:クルド問題の核心はクルド語
2010年09月26日付 Radikal 紙

ヤシャル・ケマルは数年前、ドイツの週刊誌である『デア・シュピーゲル』に掲載した声明により、対テロ闘争法に抵触するとし、国家治安裁判所にて起訴された。その時の証言で、わたしの記憶に刻まれることになる表現を彼は使った。私の記憶に残っている限りでは、彼はこのように証言したはずだ。「一つの民族の言語を切り捨てるならば、それは彼らを消し去ることなのです。クルド人たちの言語は切り捨てられました。切り捨てられることが望まれたのです。これはなんてひどい残虐行為なのでしょう」
ヤシャル・ケマルも強調したように、アイデンティティ問題の核心は言語である。言語を失った民族は、歴史や未来、そしてアイデンティティとの繋がりを分断されてしまうのだ。

アンゲラ・メルケルドイツ連邦首相との会談にて、タイイプ・エルドアン首相は彼女にこのように話した。「トルコにはドイツ学校があります。なぜドイツにはトルコ学校がないのでしょう。ドイツは、この分野での必要性が高まっていることにまだ気づいていないようです。人々はまず自身の母語、つまりトルコ語をしっかりと身に付けなければいけません。しかし残念ながら現状において、このような状況ではありません」
「人々はまず自身の母語をしっかりと身に付けなければならない」と発言したエルドアン首相は、ドイツに要求したことをクルド人たちがトルコに要求すると、このような言い回しを使う。「われわれに、正式に母語での教育を望んでいるのならば、それは期待してはいけません。トルコの正式な言語はトルコ語です。物事を利己的に利用しようとすることは、国家分裂の第一歩となることを、とくに私は強調します」

エルドアン首相は、クルド語がトルコにおいて公用語としての地位を獲得することはないと強調する。しかしクルド人たちも平和民主党(BDP)も、そもそもそんな要求はしていない。
彼らはこのことを何度も繰り返し表明している。
クルド人たちが、クルド語が国立学校で子どもたちへ教えられるようにとの要求の根底には、(エルドアン首相も使った表現を引き合いに出すならば)、「母語をしっかりと身に付けること」への願いがある。そのために、国家も何か行うべきだと信じている。母語での教育が(国家)分裂の発端になるという固定観念に囚われるのではなく、世界の様々な先例を、曇り無き眼で観察することで得られるものがある。
次のようなことを述べることにもメリットはあると思う。もし子どもたちへの母語教育を要求するクルド国民たちへのトルコ共和国政府の返答が、「民間で開講すればいいでしょう。しかしわれわれからの支援は期待しないでほしい」という程度のものであるなら、この発想は政策とはよべない。なぜならクルド人たちは、クルド語の講座を開講する権利をもう何年も前に獲得しているからだ。
数ヶ月前、アフメト・ダヴトオール外務大臣と共にマケドニアへ行った。そこではトルコ語の教育を行っている国立高校も訪問した。子どもたちは授業の一部をトルコ語で受け、その他の授業をマケドニア語で受けていた。その学校では二言語での教育が行われていた。われわれが訪問した学校と同様に、他の民族にも自分たちの母語が使用できる学校があると説明された。マケドニアでは内戦の後、国を構成する様々な民族の文化的権利や政治的権利を認めることを基礎に置いた和平交渉が成立し、そしてこのことにより平和へ辿りつくことができたという。
このことに関して、多くの例から分析が可能である。一つ以上の公用語を持ち、これらの言語すべてを生かし、守ることに成功し、そして(国家)分裂といった問題に直面していない国は多くある。トルコ語が公用語となっている国がバルカン諸国にはある。マケドニアでは一体性を強めてくれる文化的権利が、トルコでは分裂の原因になると信じてしまう思い込みを解くことは困難だ。

クルド人たちが文化的権利を要求することを断念するつもりはないと、このコラムでは何度も強調した。学校でのクルド語教育という要求が、容易に断念できるような要求であると考えることは、まったく現実的ではない。普遍的法則も人権も、このことに関してはクルド人の味方である。多くの国際的条約において、「母語」の保護が基本条件として表明されている。
隣国であるイラクのクルディスタン地域には、クルド語の教育を行う大学や中学校、そして高校があることも必ずや考慮する必要がある・・・クルド人たちの自治の下にあるこの地域にて、トルコ人たちも自身の言語で教育を行うことができていることは重要な論拠である。

クルド語教育が「国民教育」システムの中でどのような地位を占めることになるのかという問題は、私の意見としては、そのプロセスの第二の地位を形成するものとして考えられるべきである。国家が母語にて教育を受けることを権利として認めるならば、この権利がどのように行使されるかを話し合うために、健全な環境が形作られる。国民教育システムの中でクルド語に地位が与えられることは、トルコには複数の公用語があるという意味にも、「分裂の発端」という意味にもならない。重要なのは、クルド語が教育システムの中でどのような地位を占めるかなのである。
エルドアン首相の最近の会見のメッセージに込められた真意が、もし、「勝手に学びなさい。しかしわれわれは教育システムの中に決してこれを組み込むことはありません」というものであれば、問題解決には何の役にも立たないメッセージだろう。
クルド人たちが、クルド語を生きた言語として守りたいという願いは、とても自然なものである。この権利が与えられることを阻止し、今後さらに25年争うことを主張することなど、知性的でなく、筋もとおらない、良心に反する、そして人間の共通の価値にも合わないアプローチなのである。
われわれが自身の母語を世界のあらゆる場所で守るために努力し、闘っているならば、われわれの兄弟、つまりクルド人たちの母語をも生かし、発展させるために出来る限りのことを行うことは、人道的な義務である。
兄弟よ、兄弟の言語を支援しなければならない、兄弟という間柄をしっかりと固めてくれる“漆喰”は、きちんとした土台の上に塗られなければならないのだ・・・

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:20257 )