作家オスマン・ネジミ・ギュルメン、名誉殺人が35年間執筆を遅せた
2010年11月21日付 Yeni Safak 紙

作家オスマン・ネジミ・ギュルメンは、幼少期には母親を喪失し、大学生の時期にはフランスの巷で貧しさを経験し、そして成人期においてはブジャク部族内での名誉殺人やボドゥルムを取り仕切るマフィアと闘った。自分の意思とは無関係に引き起こされる出来事ゆえに、執筆を約35年間遅らせざるを得なかったギュルメンは、「闘うことなくして生きることはできなかった」と話す。

統合失調症、セント・ジョセフ高校、シヴェレキ(東南アナトリアに位置するクルド人地域)、パリ、ボドゥルム、名誉殺人、土地のマフィア、そして作家活動…。書き連ねるだけで誰もを驚嘆させるこれらの言葉のどれもが、オスマン・ネジミ・ギュルメンの人生の一部である。ギュルメンは、ブジャク部族を率いるオスマン・パシャの孫にあたる。祖父はシヴェレキからスルタン・アブドゥルハミト2世によってイスタンブルへ呼び寄せられる。こうして1927年、イスタンブルにてオスマン・ネジミ・ギュルメンは生まれた。

乳母達や、フランス人女性の家庭教師たちによって育てられた理由は、パシャの孫でもあり、母親が統合失調症であったためでもある。セント・ジョセフ高校に通った。作家を夢見てパリにて遊学するも、父親の仕事が破綻したことにより一文無しとなる。古紙回収からジャズのドラムスにいたるまで、数々の仕事を経験した。そしてマリアという女性と結婚する。父親からの呼び寄せにより、フランス人の妻の腕を引っ張るようにしてシヴェレキへと生活拠点を移した。パリから、電気も水道すらもないシヴェレキへと。一時期、ブジャク部族内での名誉殺人に関与してしまう。14年もの間部族内で彼自身の表現では、幸運にも生き残った。

そしてその後名誉殺人の件などから逃れ、執筆活動を始めるために静かな場所へと居を移した。ボドゥルムである。ここでハリカルナッソス・ホテルを開業するも、経営は上手くいかなかった。運命は彼を思うようにはしてくれなかった。そこでも土地のマフィアが彼の前に立ちはだかった。しばらくして(マフィアとの)闘いにうんざりすると、彼はボドゥルムから離れることを決心する。そして妻のマリアとも離婚した。妻はトルコに残るが、彼はフランスへ戻り執筆活動を始める。「メカジキ、眠っているうちにうたれた」、「ああ、情熱」、「デリボズルラル農園」、「ラナ」、「改宗者」、「君の罪とはなんだったのか、ゼリハ」…。母親について語った本である「ラナ」はベストセラーとなった。ギュルメンは、フランス語でもトルコ語でも書くことのできる作家である。「ラナ」も近々イレティシム出版社から文庫本として出版される予定だ。ギュルメンと、その人生や作家活動、そして感じていることなどについて語った。

(問い)祖父はパシャ(高官)であり、あなた自身も(イスタンブルの)スルタン・アフメト地区にあるお屋敷で成長しました。幼少期はどのように過ぎましたか?

「子どもだったのでその時期については何ともいえません。自分の世界を作る小さな存在が捜し求めたものは、なによりもまず、愛情と思いやりでした。」

(問い)幼少期を振り返ったとき、母親が統合失調症であったことによりどのような影響を受けたと思いますか?

「学生時代は母親の病気が一部の友人間で嘲笑の話題となることもありましたが、振り返ってみると母に感じていた悩みは私にとってどれも教訓となりました。思うに『幻想』に立ち向かうことを植えつけられたのです。」

(問い)どのような教育を受けたのですか?

「母親の不在の埋め合わせとして、4歳になったときに家にフランス人女性の家庭教師が来ましたし、1946年にカドゥキョイにあるセント・ジョセフ高校、 1951年にパリ国際高等学院を卒業しました。」

(問い)パリでは波乱に満ちた学生時代を過ごしたようですね。少し説明していただけますか?

「パリでの5年間の『波乱万丈な』時代を短くまとめることは少し難しいです。亡くなった父の仕事が傾いた結果、私への送金ができなくなったために見知らぬ土地で生計を立てざるを得なくなりました。私と同じ状況であったミュビン・オルホンやフィクレト・ムアッラ、フェリドゥン・チョルゲチェン、アヴニ・アルバシュ、セリム・トゥラン、そしてアフメト・ラマザンオールといった連中も、自活せざるを得なったのです。」

(問い)父親の呼び寄せによりトルコへ戻りましたね。シヴェレキへと。決心するのは難しいことでしたか?

「1951年の末にパリを離れ、幼少期から名前だけは聞いていたシヴェレキの地を初めて踏みました。イスタンブルから3日間もかかった電車での旅路の間、フランス国籍の妻の鞄が盗まれました。当時は外国人がユーフラテス川の対岸に渡ることは禁止されていました。何が起きたか考えてみてください。父のおかげで万事上手く運び、クルド語を知らないにも関わらずまったくよそ者としての引き目を感じることはありませんでした。」

(問い)突然名誉殺人に巻き込まれたときにはどう感じましたか?

「名誉殺人はそれ自体単独で語り続けるべき悲しい物語です。これまでの会話の中で『出来事は自分の意思を超える』と言いました。そう、この悲しみに満ちた10 年の末、個人と社会との関係において社会の考え方が(個人に)とても重くのしかかっているという考えにたどり着きました。」

(問い)その名誉殺人はよい結末を迎えたのですか?

「1966年にシヴェレキから離れました。40年経ってからあるドキュメンタリー(制作)のために戻ったとき、その名誉殺人の終焉を心から安堵して眺めることができ、非常に喜ばしく思いました。」

(問い)ではボドゥルムに行こうと思ったきっかけは何ですか?

「一時的な『休戦』の結果としてシヴェレキから離れることができるようになったとき、唯一つの願いが静かに暮らすことでした。幼少期から憧れていた作家の世界へ足を踏み入れるのに相応しい家を探していました。運命的に44年前の、未整備の人口5000人のボドゥルムに思い至りました。」

(問い)ボドゥルムでは土地のマフィアが立ちはだかりましたね。名誉殺人から救出され、1つのトラブルから逃れた一方で、また別のトラブルにからめ取られたといった思いにはなりましたか?

「これこそ運命です!この世界ではどんな人にもトラブルは付きものなのです。時が過ぎ、経験を積むにつれ闘わずして生きることはできないと悟りました。恐怖なくして必要な勇気などないのです!」

(問い)あなたがフランスへ戻るとき、奥さんはトルコに残りました。トルコをとても気にいったのでしょうか?

「私と同じようにフランス人の妻の祖国もトルコなのです。ある時、彼女がパリに立ち寄った際に『私たちの国でもこのようだ』と言ったとき、彼女のいう『私たちの国』とはトルコのことでした。」

(問い)作家活動はあなたの人生に突然入り込んできたのですか?

「文学への関心はまだ小学生だったときから持ち始めました。闘いとともに過ごしたため、最初の作品は48歳のとき(1976年)でした。」

(問い)初めて執筆活動を始めたときは、書き上げたものを気に入りましたか?それとも何度も何度も書き直しましたか?

「若い頃、まだ書き始めたばかりの頃は書いた物を誰にも見せずに隠していました。いまでもまだ、1つの作品を完成させたあと3、4ヶ月は作品を寝かせたままにし、印刷に出す前に『第三者の目』でもう一度推敲します。」

(問い)フランス語とトルコ語では、どちらが書くのは難しいですか?

「ある言語に対して、感情を言葉で表現できるほどそれを身につけていたならば、比較する必要はありません。難しいのは、2、3年の間(ある言葉で)表現するのに慣れた後、別の言葉で文章を作ることや、(言葉の)リズム、イメージ、そしてことわざなどを用いてもう一度その言葉に慣れる感覚を得ることです。」

(問い)初めて執筆した際、なぜフランス語を選んだのですか?

「簡単な例を示しましょう。シヴェレキで過ごす前は、いつもジュムフリエト紙を読んでいました。シヴェレキへ行き10年後にイスタンブルへ戻ったとき、再びジュムフリエト紙を買って読もうとしました。信じられないかもしれませんが、1つの文章もちゃんと理解することができなかったのです。『純化された』トルコ語の単語が、かつて知っていた、話していた言葉が過去のものとなってしまったのです。私にとって完全に外国語となってしまった言葉で何を書くことができましょうか!フランス語は幼い頃から話していた、好きな言語です。だから、パリのガリマール社から出版された最初の本(1976年)はフランス語で書きました」

(問い)「ラナ」は大きな関心を呼んだ本となりました。これはなぜだと思いますか?

「『ラナ』が大きな関心を呼んだのは、思うに、人間の内面世界における混沌とした感情を映し出していて、読者と感情を共有できる作品であったという点で人々が関心を示したためなのでしょう。登場人物の一人の『書きな、お嬢ちゃん、さあ、そしたら言うことを聞くから。好きな人たちみんなに受けた悲しみを教えな。私が新聞社に伝えて、広めるから。そしてみんなにわからせよう』という願いは、人々が求めているものの一例として挙げられるでしょう。」

(問い)もっと早くに執筆活動を始められていたならば、と思うことはありましたか?

「執筆活動をもっと早くに始めていられたならば!そう思います。しかし残念ながら『自分の意思を超えた出来事』がこのことの妨げになりました。」

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:20746 )