Taha Akyol コラム:オスマン帝国を考える
2011年01月04日付 Milliyet 紙

私たちの歴史論争は続いている!レイモンド・アロン氏が言うところの「革命を経た社会」において、昨今、歴史は大きな論争のテーマとなっている。
フランス革命の歴史を、保守派の歴史家ピエール・ギャゾット氏、革新派の歴史家アルベール・ソブール氏、或いは修正主義者の歴史家フランソワ・フュレから学ぶなら、3回眼鏡を取り換えるようなものである。私が好きなのは修正主義者と呼ばれる、新しいタイプの歴史家たちである。しかし3つの異なる眼鏡で学ぶことは、複雑な現実を3つの視点から見るような、視野の広がりをもたらしてくれる。
こんなことを何故私は書いているのだろうか?先日(1月3日)の「オスマン帝国におけるトルコ語」という私のコラムにたいし、熱烈な賛同と怒りに満ちた批判を受けたために、今この記事を書いているのだ。
オスマン文明におけるトルコ文化の優位性を指摘することが、大いなる賛同をもって受け入れられるということは分かる。しかし、「オスマン帝国はトルコ人の敵であった、アナトリアのトルコ人達をなきものにした、保守反動主義者であった」という様な言葉によって示された「ナショナリスト的(共和国主義者的)」反応は私には理解できない。
そのため、幾つかの方法論的考察をここで述べたいと思う。

■ 歴史の底を波打つもの

オスマン帝国において、とりわけ16世紀においてみられたチュルクメンの叛乱と国家からの弾圧を、「トルコ人への敵意」或いは「宗派の衝突」のように見ることは誤りである。この事件の根底にある流れとして、まず16世紀において全地中海規模で見られた人口爆発と、(その人口爆発に対して)アナトリアの土地不足という問題があったということが挙げられる。次に、定住文化を構築しようとするプロセスの中で明らかになった定住民と遊牧民、或いは中央と辺境の衝突が挙げられよう。同様にイランのサファビー朝もまた、遊牧のチュルクメン部族に容赦なく接し、オスマン帝国よりも厳しく対処していた。

デヴシルメ制を、「トルコ人であることへの背信行為」といった「近代的」概念によって説明することはできない。デヴシルメ制は、対立しあっていた部族組織の上位に、定住と権威を有する国家を構築するための手段であった。征服王(メフメト2世)が、こうした国家構造を確立しなかったら、オスマン帝国の寿命がセルジューク朝よりも長くなることはなかったであろう。

デヴシルメ制は、オスマン帝国では文化的トルコ化、サファビー朝では文化的ペルシャ化として展開していった。そのため両国家はそれぞれ異なる教育および法の言語を有するようになり、20世紀に現れた結果(すなわちトルコ共和国とイラン)も大きく異なるものとなった。

ヨーロッパはといえば、オスマン帝国の成立よりもさらに6、7世紀まえに移動性を有する部族構造や民族移動を終えており、定住を基礎とする封建制が生じ始めていた。そしてヨーロッパ大陸は驚くほどの生産力をもつようになり・・・そのおかげで、ヨーロッパで「ネーション」が早くから生まれた要因の一つは、これなのである。(ヨーロッパに比べてネーションの形成が遅かったのは)「オスマン帝国のウンマ主義」のせいでも「イスラムがトルコ人の能力を麻痺させたから」でもない。

■ 歴史を再び考え直すこと

共和国の歴史観は、歴史におけるこの種の社会学的諸要素を考慮してこなかった。ザーフェル・トプラック教授が、「社会学から人類学へ」という論文で明らかにしたように、共和国を建国した者たちは歴史を人類学的な諸要素によって説明しようと努めた。ザーフェル教授が『社会史(Toplumsal Tarih)』の最新号に発表した論文を是非読んでいただきたい。
人類学的な分析は、世俗国家である共和国に、オスマン帝国時代を「コスモポリタン」や「ウンマ主義」といって非難する機会を与えてきた。この観点から(人類学は)実利的で、便利であった。しかし、人類学は科学的ではないばかりか、共和国の近代化プロジェクトにとって、しっかりとした土台にはなりえるものではなかった、なりえなかったのだ・・・。
さあ皆さん、私たちは自分の将来の礎について議論が必要となるや、「千年の歴史」を語るのである!
昨日「ウンマの時代」と批難されたものが、いまや千年の歴史である!
私たちにおいても、(非科学的でない)アカデミックな歴史観が発展すればするほど、「修正主義的歴史観」も発展する。そのため、ハリル・イナルジュク、イルベル・オルタユル、アフメト・ヤシャル・オジャク、ジェマル・カファダルなどの歴史家達の著作や論文を読もう、と昨日私は書いたのだ。

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( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:21114 )