Gunduz Vassafコラム:自らが好きな名前を選ぶ権利を
2011年07月24日付 Radikal 紙

自らの名前の選択を自由に行い、世界市民への道を開くときはすでにやってきた。

憲法裁判所は、トルコ国民のファヴィウス・アイ氏が名前をパウルス・バルトゥマに変更することを、苗字がトルコ語でないとして認めなかった。名前がなぜこれほど重要なのか?
頭に浮かぶのは、「子どもを持つ(所有する)」という表現から考慮するに、馬、ロバ、猫、犬に名前をつけるように、我々は子どもに名前をつけているということ。歴史を通じて私たちは“奴隷”(所有されるもの)であり、“奴隷”の所有者だった。過去を顧みるとき、誰も自分が奴隷(所有されるもの)であったと思いたくはない。私たちが無意識のうちに内在化している「所有者であることへの憧れ」によって、私たちは子どもに対して権力を振るう。おそらく子どもは、歴史上最後の“奴隷”だ。両親が子供を殴ることは彼らの権利だと私たちは思っていた。神の名のもと、私たちは子供たちを犠牲にしてきた。預言者アブラハムに、自分の子どもを殺さないようにと雄羊が送られたのも、この事実を物語っている。しかし子供に関してはすでに国連によって採択された「児童の権利に関する条約」というものが存在する。歴史上もう一つの“奴隷”である女性が、男性優位の世界から自由になるために、最近、いまだかつてない道が越えられた。これは些細なことだが重要である、すなわち結婚後に女性が婚姻前の苗字を保持できることである。今度は子どもへの名付けが問われる番だ。トルコでは身の毛のよだつような名前がある。イェテル(十分だ)、イムダト(助けて)、サトゥルムシュ(売られた)、デヴリム(革命)、オジャル(敵討ち)、フンジャル(復讐)、ヴラル(打撃)・・・。このように子どもの精神や心に否定的な影響を及ぼし、嘲笑の種になるような名前が多い。父親が自分の好きな政治家の名前をつけ、子どもはその政治家の考えを嫌う。気に入らない祖母の名前をつけられ、鏡を見ると祖母の顔がうかぶ。一定の年齢に達した子どもが、自分の望む名前を選ぶ権利が認められるだろう、いつの日か。自分にふさわしい名前が選ばれ、必要とあらば変えられるであろう。子どもが、嫌だと思う名前で一生呼ばれることは、どれほど辛く、大きな問題であるか。一種の精神的拷問である。名前は制服のようなものだ。国民国家や宗教への帰属の証である。そしてそれは先入観を抱かせ、人種差別、ナショナリズムを誘導する。名前は危険だ。テロリストは人質をその名前によって殺すか、「我々の仲間だ」と言って解放するか判断する。国家管理体制の中で、個人のアイデンティティを証明するものとしての名前の重要性は、この先なくなるであろう。最新テクノロジーで全体主義化した国家は、虹彩認証システムで私たちを認識するというところまで来ている。このため名前の選択と同様、名前の変更も個人の選択になるだろう。ジャムセッションのように、望む価値観で自分に似合うと思った名前を使うことができるだろう。ある女性が、知り合ったばかりの友達の夫の名前を聞くと、「あー、ムスタファなの?私は2人のムスタファと結婚したことがあるのよ」と、会話の中で言っていた。せめて愛し合った人の名前が同じにはならないといい。私たちは現在、名付けの問題で以下のようなジレンマに直面している。一方はトルコのように、国民に、唯一のアイデンティティに基づく同じ制服を着せようとするナショナリズム的な体制、もう一方は抑圧する支配体制に対して憤慨し、息の詰まるようなエスニックアイデンティティを基に主張する人たち。個人の名前の選択を自由にし、世界市民への道を開くときはすでにやってきた。心配しないでもらいたい、文化はこれでなくなりはしない。逆に、抑圧と共に生きていかなくて済む。アイルランド人が、気に入ったクルド人の名前を使い、トルコ人が自分にスペイン語の名前をつけることは、みんなを豊かにする。その日は来る、トルコ語に例があるように、名前での性差別がなくなる日が。

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:23404 )