トルコからの労働移民調査
2011年07月31日付 Milliyet 紙


労働移民の歴史が初めて記される。エセックス大学のアイシェ・ギュヴェリ教授が始めたプロジャクトは、労働のためにトルコからヨーロッパに行った者達とその後を明らかにする。

トルコからヨーロッパへの労働移住の50年目は2011年である。つまり、「労働移民たちの」。我々が飽き飽きしている、さらに時々風刺を受けるこの移住は、 20世紀の二大移住のひとつであると今週学んだ。もうひとつの方は、それについて行われていない調査や明らかになっていない情報が皆無といえるメキシコ人のアメリカ合衆国への移住である。トルコ人のヨーロッパへの移住はというと、謎なのである。

これらをイギリスのエセックス大学社会学科教育担当のアイシェ・ギュヴェリ教授から学んだ。なぜなら、彼女のやり方次第であるから。「500世帯―トルコ 人のヨーロッパへの移住史」という名の調査の発案者はギュヴェリ教授なのである。調査のうちには、エセックス大学と共同でドイツからケムニッツ大学、オランダからは自由大学も参加している。

調査は4つの地域で行われる。トラブゾンのアクチャーバト、コンヤのクル、デニズリのアジュパヤム、そしてアフヨンのエミルダーである。IpsosKMG社は、現在この4地域で村々を回って戸を叩き、調査対象になる家族を捜すことに努めている。
アイシェ教授と調査チームの目標は、1930年から1945年の間にトルコで最も多く移民を生み出した地域に生まれた500人と下の世代の移住、家族、社会経済の歴史について書くことである。結果として、トルコだけでなくヨーロッパにも大きく影響を及ぼした移住の様子が明らかになる。

■村に残る者たちによると、移民は「だめになった」

―このプロジェクトはどのように生じたのですか?

実は、以前から私自身経験していたことでした。私も移民の家族の子です。プロジェクトは頭の中で私の家族の質問により形となりました。例えば、私の母はしばしば「トルコ人はヨーロッパでアイデンティティーを失ってしまう、無くなっていく」と言う。本当にそうなのだろうか。私はプロジェクトを進行した が、私の周りの者は「そんなことには誰も金を出してくれない」と言っていた。

―なぜ?魅力的なテーマではないのですか?

魅力的ですが、問題があるのです。

ーどこに問題が。

全てのプロジェクトは、各地域に赴いて家を訪問した人たちが私たちに協力してくれるかどうかにかかっています。我々は戸を叩き「ご家族の中に1960年代にヨー ロッパへ働きに行っていた人はいらっしゃいますか」と聞きます。いるならばそれに関して情報を得ます。情報を与えていただけなかった場合、このプロジェク トは進行しません。非常に怖かった。まず予備調査地域へ、シャルクシュラへ行き試しに調べました。一軒一軒訪問しました。15軒中13軒が我々に協力してくれました。そうして安心しました。

―資金は誰が?

14カ国の研究機関が集合したNORFACEです。約250万ユーロを提供してくれました。

―トルコからヨーロッパへの労働移住に関して、それより前に調査は行われていたのですか?

いいえ。この面でもこの調査計画の面でも、この調査が最初のものです。移住は、一度として、移住元の国から移住先の国へと始められていないのです。逆です。我々は最初に移住元の地域から始めました。家族を見つけ、初めに移住した男性の家系を見ました。同時に移民を出した地域で、ヨーロッパに行った者と行かなかった者の間で比較を行いました。行かなかった人たちはどのように影響されたのか?これも新しい調査分野です。

―あなたが調査を行った地域では、ヨーロッパに行かなかった者は行った者をどのように見ていますか?

移民した者たちについて否定的です。しかし彼らは「行っていなければなぁ」とは言いません。「家族はバラバラになりました、しかし多分ここにいた ら、食べるに困っていたでしょう」と言うのです。移民していない人々によれば、「彼らは墜落した」と言う。信仰を、価値を忘れてしまった。例えば、贅沢な車で来る移民たちが見せびらかしていると考えているのです。

―トルコにおける意識は、ヨーロッパに移住した人たちがより保守的であるというものですが、あなたの見解はどうですか?

実のところ、反対です。ここにいる人々はトルコ人は西に行くと価値を失ってしまうと考えています。後にその移民が、少なくとも自分たち同様、宗教的となり戻 ると「宗教に繋がった」と言います。私はヨーロッパ価値調査の結果で、ヨーロッパにいるトルコ人とトルコにいるトルコ人を比較し、そこで相違点を見つけられませんでした。

―ヨーロッパがどのように影響されたのか話されていますが、トルコはこの移住からどのように影響を受けていますか?

多分あなたにはおかしく思えるでしょうが、とても良い影響を受けています。なぜなら、私の考えでは移民たちはトルコがヨーロッパに入る道であるからです。単に経済的にだけでなく、文化的にも貢献をしたのです。「ヨーロッパは見た」と言われているでしょう、ただ地域は悪い影響を受けました。

―どうして?

なぜなら、その地域の最も有能な人が行ったからです。

―いつも質の低い人たちが行ったという意見ばかりですが、あなたは全く反対のことを考えていますね。

はい。実際、移民の息子が結婚する場合、彼らは村に来ると、全ての女性たちは結婚を望みます。最も教養があり最も美しい女性を得て行くのです。

■「1990年代にはトルコ人であることが最大の障害であり、今日はイスラム教徒であることが障害だ」

―あなたはご自身の移住のことを覚えていますか?

ええ。7歳の時でした。オランダに飛行機で行きました。夜で、空に星は糸のように並んでいたように思います。でも、星たちは道の脇にある光のようでした。いまでも思い出せます。

―その時の感情は?恐怖や、不安、心配ですか?

私はただ興奮していたことを覚えています。全ての持ち物を売り払ってしまった。パスポートを取るために村からチャイカラへ行きました。一匹の猫を飼っていましたが、母がそれをとても遠い村に捨てました。二日後に猫は私たちを探して我々のもとに来たんです。最も印象的だったのはこれでしょうね。状況を非常に良く説明してくれることです。我々も移住しましたが、トルコとの繋がりは解けていません。定期的に帰っていましたから。

―永続的に帰ることは全く考えていなかったのですか?

みな考えていましたよ。しかしそこにいた人たちは1990年代以降帰国することを夢見るのをやめました。もう全て家族を引き連れて、戻れないことに気付いたのです。しかし第2、3世代の高等教育を受けた人たちには、帰国し始めました。

―これをどのように説明しますか?

トルコで経済状況が改善されることによって…。教養のある人々はトルコでより容易に仕事を見つけられると考えています。生まれ育った移住先の国に差別があることを無視しないことが必要です。その国の住民は2,3カ月のうちに職が見つかるのに対し、トルコ人は1年たっても見つからないのです。

―どれほど成功しようと、同じ差別にあうのですか?

あれこれの形で絶対にあいます。しかしそんなに不快を与えるほどではありません。

―あなたのトルコ人としてのアイデンティティーとイスラム教としてのアイデンティティー、どちらがより障害となったのですか。

1990年代にはトルコ人であることが、現在ではイスラム教徒であることが障害です。ヨーロッパではイスラム教徒であることが悪いことなのです。

―ノルウェーで政治を行っているギュルアイ・クタル氏は、一昨日、本紙にノルウェーにおける凶悪犯罪実行者の正体がわかるまでイスラム教徒が経験した恐怖を説明しましたが。

その恐怖を私はよく知っています。私たちもオランダで暮らしていました。ピム・フォルタイン氏は、オランダで右派の見解をタブーであることから取り除いた人物でした。2002年に殺害され、2時間後に警察はこのように発表をしたのです、「犯人は白人のオランダ人です」と。これはどういうことでしょうか。「イスラム教徒を襲撃するな」ということです。我々もイスラム教徒ではないようにと祈っていました、なんとおかしなことでしょうか。

―しかし、フォルタイン氏の映画を作ったテオ・ヴァン・ゴッホはイスラム教徒によって殺害されましたね。

それは災難でした。非常に悪いことです。モスクの壁に侮蔑的なことが書かれ、あるトルコ人学校に火が放たれました。しかし余談ですが、2000年代初頭以来は、これは当たり前の反応なのだと考えるようになりました。

―何が当たり前なのですか。

では、当たり前ではなく、説明できる反応だと言いましょうか。ヨーロッパ社会は移民とともに非常に短い間に変化を被らなければならなかった。考えてもみてください、社会の10%がイスラム化しているのです。これを話し合う必要があります。

■「村でイマームたちが調査のために呼びかけを行っている」

現地調査を進めるのはIpsos KMG社社会調査研究所トングチュ・チョバン研究代表。4地域に40人のスタッフがいる。我々は25日間現地にいる。1万3000軒を調査し、各地域で 400世帯を見つけることを目標としている。90%に達した。我々は困難な仕事を行っている。昔はこの類の社会調査では憲兵や警察と問題が起こった。ここでは 重要な大学が学期内であったため作業は容易となりました。イマームさえモスクで「村で調査をしているので、協力してください」と呼びかけている。時間と競っていますが、時々人々が説明したいと思っていることもあります。アンケートの質問が終わってから「じゃあ今度は書き取り」と言って不満を書き連ねます。アイラン、食べ物を供して…(私たちを)離そうとしないのです。

■「最も貧しい地域から行った者は少なかった。」

―何人と話すのですか。

2000世帯を調査します。6500人と対面しました。約1万2000人について情報を集めます。

―その情報とは?

まずその家族を最もよく知っている人にアンケートを行います。家族の各人について23問の質問を尋ねます。家族の、ヨーロッパに行った第一世代の男性については、33問の質問があります。その後家族が今誰とどのように暮らしているか、言語教育、誰に投票したのか、政治的見解、宗教関係について質問します。

―調査を行う4地域をどのように決めましたか。

ヨーロッパに高い割合で移住した地域がこれらです。地理的分布も配慮しました。中央アナトリア、黒海、西…。実際、あの当時トルコの政策は、 貧しい地域から職能のない人が海外に送られるというものでした。でもそうではなかったのです。発展に向かう地域から中程度の能力のある人が行きました。最も貧しい地域から行った者はいませんでした。

―何故?

移住するには、冒険的な魂と少しのお金が必要です。非常に貧しいのでは、イスタンブルにさえ行かれないでしょう。

―では、なぜ調査に南東部が入っていないのですか。

なぜなら、一つの郡からまとまって移住したといえないからです。実は、我々はただ1961年から1974年の労働者移住を調査しているのです。南東部からヨーロッパへの移住の歴史と理由は違うのです。


(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:倉田杏実 )
( 記事ID:23497 )