隠れ改宗者の最大の敵は、共和主義者で世俗的なトルコ人
2011年08月22日付 Radikal 紙

「テッサロニキの隠れ改宗者」について学術的かつ総合的な書を著したマーク・デイヴィッド・ベア氏は、「ムスタファ・ケマルを隠れ改宗者だと言うイスラム主義者と、エルドアン首相をユダヤ人だと言うナショナリストは同じくらい人種差別的である」と述べた。

―テッサロニキの隠れ改宗者=サバタイ派 なのですか?あなたは何故、著書でサバタイ派と言わず隠れ改宗者と言う表現を使うことを選んだのですか?

彼らは自分たちのことを「マーマニム」と呼んでいました、これはヘブライ語で「信仰する者」という意味です。ほとんど誰もこの言葉を聞いたことがないため、私も20世紀以来この人々のためトルコで使われている「隠れ改宗者(ドンメ)」という言葉を選びました。

―それでは、サバタイ派というのは間違った言葉なのでしょうか?

ええ。なぜなら、歴史上では全く使われていなかったからです。

―英語で「convert」という言葉に相当する「改宗者(ドンメ)」がトルコではネガティブな意味があるので、お聞きしたいのですが。

トルコ語でイスラムに改宗した者に使われる正しい表現は「muhtedi」です。改宗者(ドンメ)と言う言葉は信仰を捨てていった者という意味を含んでいます。これは、その人が捨てた信仰を保持する人にとってはネガティブな表現です。ここで言う集団の人々も皆、このために自分たちのことを「信仰者」と言う名で呼んでいます。彼らはメシアから自分たちにお告げがあった、正しい神を信じていると主張しています。

―“テッサロニキの改宗者”をひとことで説明するとしたら、どの特徴をその一言にいれますか?

1666年と1923年の間、オスマン朝テッサロニキで改宗者は新たな民族宗教信仰、礼拝儀礼とアイデンティティを生み出しました。道徳と宗教性の根源は、ユダヤ教のカバラとイスラムの神秘主義の交差点に見ることができます。この宗教と境界が良く保たれた民族的アイデンティティが、彼らがユダヤ教徒でも正統なムスリムでもないことを明らかにしています。

―ユダヤ教徒はサバタイ派をどのように見ていますか?

17世紀にこの運動が初めて起こって以来、隠れ改宗者はユダヤ教の指導者からユダヤ教徒として認められませんでした。ユダヤ教徒はサバタイ・ツヴィがユダヤ教に相応しく振舞っているとも思っていませんでした。ラビたちは当初からサバタイ・ツヴィに追従する者は背教者であり、ユダヤ教を、自ら進んで放棄した者と判じていました。

―テッサロニキの隠れ改宗者が、自分たちの社会に対して隠された計画を持っていたという考えは何を根拠にしているのですか?

改宗者とユダヤ人との関係が良くなかったこと、ユダヤ人が彼らを信仰を捨てた危険な人々として見ていたこと、そしてテッサロニキで(ユダヤ人と隠れ改宗者たちは)経済的なライバルであったことが分かっているのに、改宗者がユダヤ人の要望に応えるために(ユダヤ人の意を受けて)行動したなどと考えることができるのでしょうか。もう一度繰り返してみましょう、オスマン朝時代、ユダヤ教徒は、隠れ改宗者をユダヤ教徒として認めませんでした。改宗者も自分たちのことをユダヤ教徒だとは思っていなかった。オスマン朝におけるイスラム法と法令によると、改宗者はユダヤ人であると認められなかった、なぜなら彼らがイスラムに改宗したからです。ユダヤ教徒とオスマン朝政府が改宗者をユダヤ教徒だと認めなかったのに、何故我々が今日彼らをユダヤ教徒だと認めるでしょう、あるいは認められるのでしょう。

―他にも言われていることですが、テッサロニキの隠れ改宗者は、世俗的なトルコ共和国の設立のために送り込まれた無宗教の人々だと・・・。実際、隠れ改宗者は信仰者なのでしょうか?

オスマン朝時代のテッサロニキの改宗者はオスマン人であると主張しました。彼らは帝国を救うことを夢見ていました。なぜなら、この体制ならば彼らは自らの信仰を容易に実践出来たからです。改宗者は自らの道徳と宗教の定めたところに従い暮らす、信仰篤い人々の集団でした。彼らはトルコ・ナショナリストも世俗主義も支持しなかった。テッサロニキで出版した文学雑誌や新聞で、当時の改宗者の政治家らが1908年革命で行った演説を読んでみるとこれが分かります。しかし改宗者は住民交換の際、ギリシャからトルコに強制移住させられた後、世俗主義とナショナリズムを主張し始めました。彼らはテッサロニキを去りイスタンブルに来ることを自分では選ばず、テッサロニキから離れた最後の人々でした。

―ムスタファ・ケマルがサバタイ派であるかどうかについての正確な情報はないのですか?あなたはムスタファ・ケマルについて「歴史をどこから見るかによる」と言いましたが、それはつまりひとつの見方によるとムスタファ・ケマルはサバタイ派であり、他の見方ならば違うと言うことですか?

1920年代から今日まで、ムスタファ・ケマルが隠れ改宗者であり、この考えに伴いそもそもはユダヤ人であると主張するイスラム主義者もいました。この考え方によると、もしもムスタファ・ケマルがユダヤ教徒であったなら、彼の建てたトルコ共和国は正当ではありません。これは、ユダヤ教徒が国家に忠誠を持たず信用に足らない人々であり、ただユダヤ教徒の利益を助長するという考えに基づいた人種差別主義的な考え方です。同じく差別的な考え方を持っているナショナリストには、タイイプ・エルドアン首相がユダヤ人であると考える者もいます。私が観点と言うのはこのことです。このような考えを持って彼らも同じ形でタイイプ・エルフドアン首相がトルコ国民に対し誠実ではなくなり、彼らの利益を考えないと主張しているのです。トルコで権力を手にした者は誰であれ、権力を失った者からユダヤ人だと非難されるようです!実際は、トルコ共和国が隠れユダヤ人により支配されたことは一度としてありません。

―住民交換で、イスタンブルに来たテッサロニキ移民は隠れ改宗者なのでしょうか?例えば、私の曾祖母は1923年にイスタンブルに来て、祖母は1924年にイスタンブルで生まれました。しかし87歳で死ぬ日まで、祖母は絶対にサバタイ派ではないと言っていました。あなたはどう思いますか?

住民交換の前のテッサロニキには約5万人のムスリムが暮らしていました。このうち1万5千人~2万人は、つまりテッサロニキから来た人達のせいぜい3人に1人が改宗者でした。おばあ様があなたに言ったことはおそらく正しいと思います。

―1923~24年の住民交換は改宗者の文化的構造や生活スタイルにどのように影響を与えたのですか?
改宗者はトルコに来た後、世俗的なトルコ・ナショナリストにならざるを得なかった。学校で子供たちに教えられた授業についてコントロールを失いました。ヨーロッパ残留者との繋がりは絶えました。トルコ共和国の閉鎖的な経済政策の結果、経済力も・・・。オスマン朝時代に力を持った2人の改宗者、メフメト・ジャヴィト氏とナーズム医師は、1926年にムスタファ・ケマルによって殺されました。特にこの後、改宗者が経済力も政治力も失いました。

―改宗者たちは共和国の前半期の厳格なトルコ化政策には不快感を持っていたのでしょうか、それともその過程を問題なく受け入れていたのでしょうか?

改宗者のために、トルコ化と言う言葉は使えません、というのも、彼らはそもそもトルコ語を話す、トルコ人とみなされた集団です。彼らがより多くの被害を被ったのは、世俗化政策でした。改宗者は自身の宗教的習慣とさらには宗教を完全に放棄しなければならなかったのです。当時の政策の結果、自らのアイデンティティを失い、改宗者でない人々と結婚し始めました。

―それを聞こうと思っていました。改宗者内での結婚の慣習はいつ終わったのですか?

1940年代になると、多くの改宗者が、閉鎖的な民族宗教アイデンティティを終わらせることに賛同していました。1950年代に半数が改宗者ではない人と結婚しました。

―改宗者の階級構造について我々は何も知りません。例えば、貧しいサバタイ派はいなかったというような考えがありますが、それらは本当なのでしょうか?

オスマン朝のテッサロニキで、改宗者は互いに強く結び付いた集団であることから、その中の貧困者を保護していて、誰も集団の決まりを侵さないようにしていました。このため改宗者たちの中には貧困者も犯罪者も少なかったのです。

―今日以降のトルコに住むテッサロニキの改宗者のだいたいの人数について何か考えはありますか?

1950年以降、改宗者は組織された民族宗教集団であることの特徴を失いました。この年代には数万人の改宗者がいました。非常に多くの改宗者が改宗者集団以外の人と結婚したり信仰を離れたため、すでに改宗者の数について何か言うことは意味をなしません。しかしこれは言うことができます。改宗者は今日、ただトルコの反ユダヤ主義者の頭の中で生きる架空の集団なのです。

―テッサロニキの隠れ改宗者の最大の敵は誰ですか、より正確に言うと、誰が最も彼らを敵視していますか?

彼らが初めて出現した1666年から1923年まで、オスマン朝の支配者は改宗者の宗教的アイデンティティを一度でさえ問わなかった。彼らもムスリムとして認められ、19世紀末にテッサロニキ社会の最高位にまで登りつめました。トルコ共和国が彼らがユダヤ人であることを突き止め、1942年から1944年に富裕税法を課すまでは、敵対関係はありませんでした。イスラム主義者が約1世紀に渡る改宗者に関する反ユダヤ主義の陰謀説を生み出したのは本当です。1950年代の後、イスラム主義者は改宗者に対する攻撃を強め、1952年にはあるイスラム主義者が、隠れ改宗者の新聞記者アフメト・エミン・ヤルマン氏を殺害するに至りました。しかしイスラム主義者が主張するこの考えは、長い間取るに足らない見解でした。しかしながらここ10年のうちに、世俗的なネオ・ナショナリストが改宗者について多くの同様の反ユダヤ主義陰謀説を広まり、これらの本は何十万部も売れました。このような反改宗者の陰謀説を一般に受け入れられるような状態にしたのはナショナリストたちです。つまり本当は、改宗者たちの最大の敵は、彼らに自らの宗教を捨てることを要求する、共和主義者の世俗的なトルコ人なのです。

カリフォルニア大学歴史学部のマーク・デイヴィッド・ベア氏の著作は、サバタイ・ツヴィの統率下にユダヤ教からイスラムに改宗したテッサロニキの改宗者について書かれたもので、今日までに市場に出た中で、最も広範で学術的な本のうちの一つである。6月にトルコ語でも刊行された。ベア氏の著書は、トルコ共和国の成立以来高い関心を持たれ、それについて何百回も推論されてきた集団に関する、体制の組織的な態度を理解するにあたり、非常に重要で最新のものである。

■アヴ月には着飾る

―サバタイ派の礼拝と宗教儀式は長い年月の間にどう変わりましたか?

オスマン朝時代のテッサロニキで、隠れ改宗者たちは特有の宗教歴、礼拝様式、信仰を発達させてきました。これらのうちユダヤ人やイスラム教徒が従ったものはひとつもありません。改宗者の宗教儀礼はサバタイ・ツヴィの人生で起きた事柄に基づきます。サバタイ・ツヴィが母親の胎内に宿り、誕生し、割礼を受け、メシアとなり宗教改革を起こしたなどです。また、年間行事もサバタイ・ツヴィがユダヤ暦に行った改変を反映しており、ヘブライ暦におけるアヴ月をエルサレムの初めと二番目の神殿の崩壊の年にではなく、メシアの生まれた日が祝われるようになったなどがある。この時期、ユダヤ人は衣服を裂いて断食をし、苦行をするが、改宗者たちは最も良い衣類をまとい、甘いものを食べ、ダンスを踊り、歌も歌う。食べ物についての規則も、改宗者がユダヤ教からもイスラムからもどれくらい離れているかを示している。改宗者は肉をバターで調理するなど、食事の規則(カシュルート)を特に破っている。(訳注:ユダヤ教では肉と乳製品を一緒にとることが禁じられている。)


■ヤルチュン・キュチュク氏の主張は何も示さない

―ソネル・ヤルチュン氏のこれについての著書『エフェンディ』を読まれましたか?

反ユダヤ主義の考え方として悪いのは、ユダヤ人がどこにでもおり、常に社会を破壊することを計画しているという考えを含む陰謀説です。彼の著書は反ユダヤ主義の空想小説としては読むことができます。歴史的研究として真剣に受け取るようなところはまったくありません。

―サバタイ派であるかどうかは名字で分かりますか?

ヤルチュン・キュチュク氏も人の名字を見てサバタイ派であるかどうかを判別していました・・・。
ヤルチュン・キュチュク氏が示そうとしたことは、ユダヤ人がどこにでもおり、全てを手に入れようとしたことです・・・。反ユダヤ主義の見解として偏執的です。キュチュク氏の考えが我々に教えてくれることは何もありません。

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( 翻訳者:倉田杏実 )
( 記事ID:23715 )