Etyen Mahçupyanコラム:クルド政治のエゴ
2011年09月04日付 Zaman 紙

政治は、民主主義が非常に発達した国でのみ、普通の人の職業となりえる。

そこでさえ、政治家は日常生活と公務との間を太く線引きしなければならないが、少なくとも2つの間に一定のバランスがある。この種の国では、政治家の自分の役割についての認識もより謙虚になる。このため決定メカニズムに異なる見解を取り入れる能力が発達する上に、他の能力ある人を妨害しようとする意図を避けることが可能になる。しかし我が国では、政治家たちは自分の仕事を、ある種の「選ばれた者」という意識により、神の使命かのように考えている。何度も繰り返されているように、一度政界に入った者は二度と出ることができない。なぜならば、再び「凡人になること」、つまり普通の人になる事を望まないからである。

民主主義が未発達の国では、政治はエゴを産む、本人を「カン違いさせる」職業である。例えば今日「エゴ」というと、多くの人はおそらく首相の耳につく言葉や修辞術を思い浮かべるだろう。そして、この「自分は重要人物だ」という感覚が非常に広まっており、政治を行う人たちの中の一番下のレベルにまで至っているということを私たちは日々の観察から知っている。

しかし民主主義の発達は人々のエゴが抑えられることでは実現しない。エゴの抑制は原因ではなく、結果なのだ・・・。つまり、民主主義が発展すればするほど、政治をより控えめな、分かち合いの職業と考える世代が出てくる。そして彼らの政治の行い方も当然違ってくる。一方、その世代の到来を自然に任せている場合ではない。ここで最も重要なことは、彼らが政党の内部構造においてどのようなメンタリティーを持っているか、である。

民主主義への道において重大な影響を持つこのメンタリティーの問題は、特にこの国の構造的な問題からして、野党にとってより重要なことである。なぜならば、当然のこととして、政権に近い政党が必要以上に改革者である事は期待できず、そこにある古典的な家父長制のエゴの継続性を覚悟するしかないからだ。しかし国家を民主主義に向けることを目的とした野党には、「組織的エゴ」を越えることが期待される。通常数において少数派である事を考えるとすれば、民主主義を求める対立運動があらゆる進展の担い手となり、結果を出すことを自らのエゴより優先することが期待される。言いかえれば、例えば今日クルド問題の解決のために多くの危険や障害を経験してきたクルド政治には、進展を支持し、この進展が誰によるものなのかは問題にしないことが望まれる。なぜならば、この分野で誰により進展がなされようと、その本当の担い手は結局クルド社会であるからだ。

ただ、この態度には明確な自信が必要だ・・・。自信を持った野党のみが、進展を担う事に関して、自らの位置を政治の「上に」置き、与党を楽にさせるのである。このような構えは、より謙虚な態度を意味するとも言えるが、実際には当の野党を政治の本当の先見アクターにする。なぜならば、進展の歩みは民主主義の新しい境界であり、野党は今その境界を拠り所にしながら、再び与党の「前を」進み、問題の本当の管理者が彼らであることを社会に示すことができるのだ。

しかし野党が自信を持っていないなら、この本来の利点を利用することはできない。政権に利益してしまうかもしれないという不安から、前向きな一歩を踏み出す事を恐れるだろう。それどころかその進展を妨害しようとさえするかもしれない。自己不信が生んだ空白を、「組織的エゴ」で塞ごうとするだろう。これは個人のエゴと似たものではない…。個人のエゴは、ある種の稚拙として見ることもでき、一笑に付す事が出来る。しかし組織的エゴの原因となる稚拙はネタ的な要素となるにとどまらず、改革の原動力のレベルを落とす。このことは、その国の政治的発言や手法の固定化を助長する。こうして、野党が望む民主化がさらに遠ざかるのだ。

つまり、民主主義を望む野党の行動が、自信不足のまま強い組織的エゴでなされると、自身の政治的目標とは反対の原動力を生む。クルド政治においてもこうした例は数え切れないほどある・・・。平和民主党(BDP)関係者らのほとんどの発言で、この「足りない」感が行間に染みついているのが見て取れる。例えばBDP党員らは、首相の「否定政策は終わった」という発言を快く思わないかもしれない。なぜならばこれを公正発展党(AKP)員がもたらした結果としてではなく、自らの成果として披露することが彼らにとって極めて重要だからである・・・。また同じ理由で、(国会の)宣誓ボイコットを終えることも心理的観点から彼らにとっては難しい。なぜならば、自分たちが議会の一部としてではなく、議会と同等の対話者のように認識される事を望んでいるからである。彼らは公正発展党(AKP)議員がブルカイ氏を招待したことをすら快く思っていないが、AKPに比べればBDPにおそらくより近いであろうブルカイ氏を、なぜ自分たちが手に入れなかったのかは問い詰めない。

クルド問題の解決には、平和民主党/クルド労働者党(PKK)が政治を行うことが不可欠だが、彼らが行っているのは残念ながら「政治」ではない。彼らはまだ組織的エゴを堅持し、自分たちの重要性を高めることに躍起になっているのだ。

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:23840 )