マケドニアのトルコ人ムスリムの嘆き
2011年10月09日付 Yeni Safak 紙
オフリド湖とオフリドの街
オフリド湖とオフリドの街

マケドニアのオフリド湖畔沿いに作られたオフリド市のイマームの一人、オメル・ホボルさんの隣にわれわれは腰掛けている。ご機嫌を伺った後は、オメル師が話し続けるばかりで、われわれは黙り込んだままだ。「マケドニア人たちはトルコのドラマを見て、(われわれここのトルコ人たちに対して)あなたがたはお酒を飲まない、名誉に固執する人間ですという。(しかし)トルコのドラマでのトルコ人はそうではない。あなたがたはどんなトルコ人なのですか?」

欧州諸国の一つになろうと努めるがそもそも欧州ではなく、そしてそのフラストレーション故に国内の各地にバロック様式の建物や彫像、教会などを建てる国、マケドニア。通りにはユーゴスラビアの国民車であるユーゴの1980年モデルや、90年モデルの中でも古いタイプのイカルスバスが走っている。国名はマケドニア人の国という意味になるが、国内人口の25%がアルバニア系、5%がトルコ系、そして同じく5%がその他のバルカン諸国系である。テトヴォ市とゴスティバル市、そしてオフリド市に最も多くトルコ系市民が住んでいる。バルカンツアーで立ち寄られる都市の一つであるオフリド市にて、主要なトルコ系マイノリティの構成員の一人であり、マケドニア財務省の前副大臣であるマクスド・アリ氏と、オフリド市で暮らす二人のトルコ系イマームの一人であるオメル・ホボルさんとともにマケドニアで暮らすトルコ系市民でありムスリムでもあることについて話した。

■トルコのドラマは悪い習慣を促進している

マクスド・アリ氏とオメル・ホボルさんには、オフリド湖畔で10人ぐらいのオフリド市に住むトルコ系市民とともに彼らが友好の意味を込めた詩や歌を歌っている時に出会った。われわれもその中に参加した。(彼らの様子は)まるでトルコ人が来てくれたらわれわれの悩みを話せるのに、といった感じであった。最初は「どうして来たのですか?来なければよかったのに」といったやり取りが過ぎ、次第に彼らはマイノリティであることがもたらす不満を語り始めた。「君にはわれわれのことなどわからないよ。ここでは何年もの間ジプシーすら割礼を行なっているというのに、われわれに対し集団割礼祭を開くのだ。われわれの問題はそんなことではなく、われわれの問題は軽視されている」とマクスド・アリ氏は言う。(今度は)トルコで制作されるドラマが、マケドニアのトルコ系社会にもたらす影響について言及する。ドラマの中で見られる歪んだ関係や、ドラマに出てくる人々のライフスタイルが、トルコ系市民や特に子どもたちに悪い例となると話す。「ここでは何年もの間、トルコ系の人は誰一人ワインを飲まない。なぜならワインはコーランで罪とされている。しかしトルコのドラマを見ていると、ワインが水のように飲まれている…」

■マケドニア人たちはわれわれを(トルコの)ドラマに出てくる人々のように考え始めた

湖畔にいるオフリド市民の中で湖に入らず、ただ一人服を着ているのはオメル・ホボルさんであった。ベストにシャツ、そして布製のズボンをまとっている。「イマームであることが服装からわかるように」と彼は笑いながら言った。彼はトルコのイマーム・ハティプ学校で学び、その後進学したウルダー大学神学部では、学生寮での不満から2年次で中退したという。現在は(首都である)スコピエのキリル・メトディ大学にて中退したところから再び学び始める準備をしている。ドラマの影響が過小評価されることも最大の問題であると、ホボルさんは話す。「ドラマの中でのヌードやギャンブル、お酒、歪んだ家族のライフスタイル、そしてトルコ人が武器に興味を持つ野蛮人であるかのような表現は、ここで暮らすトルコ系市民社会に最も大きな影響を及ぼす話題です。ここのトルコ系市民は伝統や宗教と密接に関わっていますが、この種のドラマがわれわれの社会に影響を及ぼし始めました。女の子はドラマの中の女性たちを、男の子はポラト(注:トルコの人気ドラマ、「狼たちの谷」の主人公)やメマティ(注:同じく「狼たちの谷」の主要登場人物)を真似するようになりました。ここのマケドニア系市民たちも、われわれとトルコのトルコ人とを比較するようになりました。(トルコのドラマの中で)お酒が飲まれていることや、ドラマの中での関係を見て、われわれも彼らと同じようになり得ると考えているのです。」

■プラオスニクに残る最後のトルコ人、スィナン・チェレビ

オメル・ホボルさんがイマーム職を行なっているモスクでは、一日二回だけ礼拝が行われている。その礼拝にも、一人か二人アルバニア系の市民が訪れるのみである。ムスリムとして何の問題も抱えてはいないが、キリスト教国で生活しているため二級市民だと感じるという。オフリド市で壊された二つのモスクについて彼は話してくれた。プラオスニクと呼ばれる場所には、現在完成した教会と建設中の教会が一つずつある。そこには大きな修道院と神学校が建てられる。トルコ系市民がイマーレット(慈善施設)と呼ぶプラオスニクでは、かつてはイマーレット・モスクやスィナン・チェレビの墓廟があったが、モスクは取り壊されてしまった。しかし墓廟はどうしても壊せないらしい。墓廟の場所では今、考古学的な採掘作業が行われているが、墓廟は地面に強く打ち込まれた杭のようにその場に留まっている。オメル・ホボルさんは、このように話す。「ここには50年前までトルコ人だけが住んでいました。次第にマケドニア人たちが移住してきて、残った最後のトルコ人も、街のゴミを家の前に置いて追い出した。われわれに唯一残されたのは、スィナン・チェレビの墓廟です。彼はここから出ていくことはないでしょう」という。現在プロシュタトと呼ばれる広場には、かつてハジュ・カスム・モスクがあったという。オフリド市で最大の広場であり、市の中心地でもある。現在その広場には、オフリド市出身の聖クリメントの二つの彫像と、キリル文字を考案したといわれている聖キリルとメトディ兄弟の彫像がある。

■トルコからは、お金ではなく関心を待ち望んでいる

トルコ系市民らも、ハジュ・カスム広場と呼んでいた場所を、最早時と共にプロシュタトと呼ぶようになった。自分たちの文化を失ってしまったと彼らは話す。「トルコはわれわれにお金を渡したり、われわれに『ここにこんな人々がいる』と言ったりしないでほしい。われわれが自分たちの文化を失わないための何かをしてほしい。例えば、学校にトルコ語の教科書を送るとか。(トルコ語の本は)もちろん届いているが、十分な数ではない。これはトルコにとって難しいことではない」、「われわれは学生のとき、メルスィンへフォークダンスを披露しに行った。今では行くことができない。トルコはわれわれに最も簡単なフォークダンスの一つを、チームが練習する場所を作るだけでもいい」とマクスド・アリ氏は話す。トルコから待ち望むものは唯一つ、彼らの文化を失わないために何かがなされること。なぜなら宗教的なことで問題はない。礼拝もアザーンも制限されていない。しかしマクスド・アリ氏は、自身の子ども時代はトルコ語のフトゥバを聞くことができたが、今では人口が減少したため自分たちの子どもたちはアルバニア語のフトゥバだけを聞いていること、この状況も自分たちの文化の喪失に影響をもたらしていると話す。トルコ系市民の人口が減少しないように努力しているが、減少する一方のトルコ系市民たちがトルコ語を話すことをやめ、アルバニア語やマケドニア語を話すようになったと彼らは話す。「おそらく50年後には、ここではトルコ語の単語一つさえも聞くことはできなくなるだろう」と話すマクスド・アリ氏は、マケドニアのトルコ系市民のために非常に努力している人々の一人だ。近々行われる人口調査では、憲法上の権利を獲得するために多数である必要があり、この仕事のために最近は動き回っている。マケドニア憲法で有効な権利を獲得するために、この機会にトルコが助けとなることも望んでいるという。

■「私を見つけてください」

オメル・ホボルさんは礼拝の時間以外は、オフリド市でトルコ人バザールといわれる、ハルワティ教団の修道場がある通りの、端に位置するオフリド・ムフティ局にて仕事をしている。われわれを3日間にわたって案内してくれ、ムスリムのレストランや商店に連れて行ってくれた。われわれがこの街を好きになったのは彼のおかげだ。彼は言う。「ここを訪れた人は私を見つけてください。ただ訪れて観光して帰ってしまわないでください。どうか、ここに何があったのかをよく見て、学んで、そしてわれわれのことをトルコで話してください。」

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:24210 )