Taha Akyol コラム:ユヌス君の悲劇を、PKK系新聞はどう報じたか
2011年10月26日付 Hurriyet 紙

ユヌス・ゲライ君は13歳だった。ヴァンのとあるインターネットカフェにいるところを地震に襲われ、がれきの下に取り残された。その肩には死者の手が。恐怖に見開かれた目で助けを待つ時にとられた彼の写真は、私たちにとって、そして世界のメディアにおいて震災のシンボルとなった。

しかし、地震の2日目に救出されたことを「奇跡」と形容されたユヌス君は、内出血で命を失うのだった。
PKK(クルド人労働党)のオズギュル・ギュンデム紙がこの痛ましい心を切り裂くような死をどのように報じたかご存じだろうか?

「無慈悲」という見出しの下に、「奇跡さえもやつらは殺した」と書いたのだ!

「インターネットカフェで震災に遭ったが生きて救出され、まるで地震のシンボルのようになった13歳のユヌス・ゲライ君は、搬送中に殺された!」と報じた!

病院に搬送しようとするのが罪であるかのように、「がれきの下から救出されたユヌス君は内出血を伴っていたにも関わらず、アララット国立病院に搬送されようとした。そしてユヌス君は搬送中に死亡した」とも書いてある…。

■病院へ向かう救急車で

かわいそうなユヌス君は10人兄弟の9番目の子供だった。煙草を売り、靴磨きをしながら、家族の生活を支えていた。大きくなったら、警察官になりたいと言っていた。彼の父親は、「一番素直な子でした」と語り、今も涙を流している。
ユヌス君はがれきの下に一日残されたあと、拍手と喜びの涙の中で救出された。
彼の背中にあった手は大柄な遺体の手であった。それが、コンクリートの塊の下で緩衝材のように彼をいくらか守ったのだ…。

いくらかというのは、ユヌス君の細い体は潰されはしなかったが、締め付けられて骨が折れていたからだ。
救急隊は彼を担架でヴァン社会健康センターに運び込み、そこで応急処置が行われた。しかし、そこで骨折と内出血が明らかになった。彼が助かるためには、組織的な手術が必要であった。すぐにエルズルム国立病院に搬送するべく、救急車で出発した。
まだアララト山まで半分も行かないところで、かわいそうなユヌスは内出血のため死亡した。
この痛ましい事故を「殺人」と呼ぶなど、この考えをどう形容したものか言葉が見つからない。

■どんなイデオロギーも

我々は少なくとも災害に対して、「人間らしく」感じ、「人間らしく」行動できないものだろうか?
ロシアで1985年に何千もの人が命を落とした旱魃の際、「革命者」たちが、社会支援活動を妨害しようとしていたかのようである。
怒りが膨らみ、革命的力が生まれるようにと!
これはレーニンも言ったことだ。
我々はもはやこのような狂信を乗り越えた時代にいるとみるべきであろうか?
欠けているものを批判しよう、それを解決するために。
足りないことを話し合うべきだ、それを直していくために。
そして、ユヌス君のために心を痛めながら。エルジシュのサルマナア村のがれきの下で23歳で命を失ったアフィヨン出身の教師、メリケ先生のために、涙を流しながら「人間らしく」ふるまおう。
生後14日の乳のみ子アズラちゃんと、アズラちゃんにがれきの下で乳を飲ませ、唾で生きながらえさせた母親セミハさんのように生にしがみつこう…。
ジャヌスちゃんの叫びも忘れないでいよう。「どんなイデオロギーも子供の涙の前には価値はないのだから」。

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( 翻訳者:奥 真裕 )
( 記事ID:24372 )