ユルマズ・ギュネイの娘、父を語る
2012年01月08日付 Hurriyet 紙


手元に一冊の本がある。その表紙には、「部屋から部屋へ」と書かれている。

この本はドアン出版社から出版された。
著者は誰もが知っている人物ではない。
エリフ・ギュネイ・ピュトゥン。
(亡くなった映画監督の)ユルマズ・ギュネイの娘だ。
申し訳ないが、この娘は知られていない。
少なくとも私は知らなかった。
多くの人が知っているとは思っていない。
ネバハト・チェフレ前夫人とファトシュ・ギュネイ前夫人は知っている。また一方で、ユルマズ・ギュネイには表にはあまり出てこない男前の息子もいる。しかしエリフ・ギュネイ・ピュトゥンは、私にとって新たな発見であった。
それ故に興味津々である。
しかし、これだけは告白しておこう。彼女の本に対する期待は高くない。
すべての偉大な人物やパブリックな人物の子どもたちは、「あの人の子どもであることは、こんなにも素晴らしいことなのだ!」という本を書き、その人生から濾過したものを伝えている。
しかし、結果としてみな同じようなことを語っているだけだ。
「これもまたそういう本だろう」と思って、私は(手元の本を)眺めている。
胸の高鳴りはない。
そして今、最初の文章を読み始める…。

(中略)

問い:いつ、どこでお生まれになったのですか?
答え:1966年8月3日、イスタンブルです。

問い:お母様のことをどれぐらい覚えていらっしゃいますか?
答え:非常に僅かです。結果的に7年間一緒に暮らしました。

問い:お母様とお父様はどのように知り合ったのでしょう?
答え:父は著書の内容により18ヶ月間投獄され、そしてコンヤへと強制追放されます。そこで知り合ったようです。母はナイトクラブの歌手でした…

問い:恋に落ちたのでしょうか?
答え:そうであると信じたいです。強制追放の期間が終わると、父は母をアダナに住む妹のもとに預けました。その後母を引き取り、共にお金もろくに持たずに イスタンブルへ行きました。父はアシスタントや役者、脚本家として立て続けに様々な映画で活躍しました。そして成功への階段を登りつめ、有名なユルマズ・ ギュネイとなったのです。

問い:夫婦の関係は…
答え:日に日に悪化しました。母は妊娠しましたが、流産してしまいました。男の子だったそうです。そうこうしているうちにまた妊娠したことがわかりました。それが私でし た。みなが私が男の子であることを願い、そうしたら父を引き止めることができるだろうと思ったのです。私が生まれた時、その願いは壊れました。母は、父とはとうの昔に縁は切れてしまったのだと知っていました。その時にはすでに、父の生活にはネバハト・チェフレ(注)がいたのです。4歳まで母と共に暮らしました。その 後、夜間保育も行なっている保育園に預けられました…

■ 母はナイトクラブで働いていた

問い:なぜですか?
答え:夜に働いていました。ナイトクラブを続けていたのです。つまりこれは、母も望んでいたことです。暮らしをこのように立てようと望み、他の仕事をしようとしませんでした。ただ唯一愛し、よく知る仕事がこれでした。それから1年して、私は家政婦の家に預けられました…

問い:著書の中でアイテンという名前で出てくる…
答え:ええ。彼女とは最低の思い出があります。優しい人ではありませんでした。当時味わった孤独や無力感、恐怖を忘れたことはありません。しかしそうせざるを得ない状況だったのでしょう。あの女性に預けられたのです。

問い:あなたを殴り、トイレに閉じ込め、そしてあなたのすぐそばで数人の男性と抱き合う…
答え:ええ。でも怒ってはいません。そもそも私自身の問題なのです。私はどんな時も、誰かに怒りを抱いたことがありませんでした。あの当時も6 歳でした。7歳になろうかという年、父の妹のもとへ、アダナへと行きました。青色のキャリーバッグを持って。青色のヴァランのキャリーバッグは、私の物語の中で変わらずに登場する品物です。3年間、影とともに暮らし、影に話しかけていました。いつも何かを待っていましたが、何を待っていたのかわかりません。

問い:伯母さんは、あなたのそばにいた人々の中で最もあなたに優しく振る舞った人…
答え:ええ。私は彼女の大切な宝物です。そこでは、つまり彼女のそばでは、本当にとても特別な扱いを受けました。彼女は自分の子どもには怒りますが、私には怒りませんでした。

問い:あなたが兄から預かった人であるからでしょうか…
答え:おそらく。私は名前を呼ぶこともできませんでした。当時はまだ父が誰であるかも知らなかったのです。

■厳しい目をした写真

問い:いつユルマズ・ギュネイの娘であると知ったのですか…
答え:ずいぶん後になってからです。その時まで父は、家にある「厳しい目をし、銃を持つ大きな写真」でした。「あなたのお父さんはこの人よ!」と周りは言いました。私は写真を見ることさえ怖がりました。過ぎたことにくよくよし、困惑し、ほとんどいつも悲しんでいる子どもでした。悲しみに耐えるために、ずっと独りきりになりたがりました。いつも丸まって眠ることのできる隅っこを探していました。かおりを手につけ、それから手を匂いました。こうすることで私は安心できました。尽きることのない虚しさと孤独を感じていました。

問い:いつも部屋から部屋へ、恐怖から恐怖へ、痛みから痛みへと…
答え:ええ、いつも移ってばかりでした。非常に長い間このように感じていました。ある場所に、ある家族に属さないこと…。

問い:あなたをどう呼んでいましたか?
答え:「エリフ」と呼んでいました。しかし私の身分証明書には「ギュネイ」と書かれています。ギュネイという名前は父がつけたようです。アダナでは3年間暮らしましたが、もともと母のもとへ行くことを望んでいました。信じ難いほどの強い恋しさでした。

問い:なぜお母様のもとへ遣ってくれなかったのでしょう?
答え:「適当でない生活」と言われました。母はアンカラで働いていました。長期の休みには、母のもとへ行きました。母と共に過ごすことを許してくれました。鼻を母の脇の下にくっつけて、母の匂いを体いっぱいに吸い込みました。母と一緒にいるときは時間が止まったようでした。結果的に私の祈りは通じました!青色の キャリーバッグを持って、母のもとへずっと一緒にいるために向かいました。また都市から都市へ、家から家へ、部屋から部屋へ。でも、とても幸せでした。母のそばで、また義理の父もいました。私に優しく接してくれました…

■母は無上の愛情を、父は法律を象徴している

問い:しかしお母様もあなたを殴り、閉じ込めましたが…
答え:そうですが、私は構いませんでした。なぜなら母は実の母だからです。そう、世界で最も優しい母ではありませんでした。しかしそれでもいいでしょう。 母はこの人生における無上の愛情を注いでくれるのです。しかし父の愛情を評価してみてください。父親とは法律です。法を象徴しています。そしてあなたにこう言うでしょう。「これを得たければ、あなたが相応しくならなければいけない!」それ故に父親と清算することはとても難しいのです。母には数年後、 あらゆる物事の清算を果たしました。喧嘩も沢山しましたし、何度も怒鳴りましたし、何度もぶつかり合いました。母を大変悲しませました。でも残念ながら父とは清算できませんでした。なぜなら父と会えたのは合わせて3年で、その後父を失いました。

問い:お父様とは3年間、お母様とは6年間一緒にいました。最終的に二人をよく知る機会はなかったようですが…
答え:ええ。アンカラで暮らしていたときも、母と一緒にいる時間は少なかったです。学校から家へ、そして外へと。家にはただ食事のために帰っていました。 母も夜に働いていましたから、昼間は眠っていました。その後、父が私をイスタンブルに呼びました。(母は)「もう若い娘の年頃になった。父親としての責任もある。母たちと一緒に暮らすのはふさわしくない」と言いました。

■もしも男の子になれたなら

問い:何を感じましたか?
答え:何を感じたのでしょう?足下が崩れました。傷つきました!またしても私を母から切り離そうとするのです。「すべては女の子だったからだ!男の子だったならこんな目には遭わなかったのに。もしも虹の下をくぐって男の子になれたなら」と思いました。再び部屋から部屋へ、家から家へ、都市から都市へ移るはずでした。移民や避難民のように…

問い:では、(父の伴侶の)ファトシュ・ギュネイはあなたの人生にどのように入ってきたのですか?
答え:私が彼らの人生の中に入ったのです。彼女は私にとって、ラックスの石鹸の香りがするかわいいお母さんでした。いつも側にいる、かわいいお母さん!そしていつも寄り添う姉妹! イスタンブルでは、すべてが私にとって見知らぬものでした。さっさと家に帰りました。青色のキャリーバッグと2つのおさげを身につけて。 家には「影の父」の写真がありました。人混みの中で肩に担がれていたり、市民と挨拶をかわしているときの…

問い:お父様のユルマズ・ギュネイ氏は当時どこにいたのですか?
答え:セリミイェの刑務所です。時折、短い時間でしたが、刑務所でのみ会っていました。刑務所から出た夏、父は私の髪を切りました。大好きだった2つのおさげを、何も言わずに、チョキッと!うちひしがれました。「もしかして、私の髪を男の子じゃないから切ったのかしら?それとも、あの2つのおさげはあまりにも田舎者っぽかった?私のあの姿が気に入らなかったのかしら?私の何もかもが気に入らなかったのかしら?」これらの問いの答えはわかりません。決して答えを出すことができませんでした。わかったことは、父にとって私がいつも期待はずれだったということでした。ずいぶん経ってから、家にあるある本の中から刑 務所からファトシュに送った手紙を見つけました。驚きました。「ということは、手紙を書くことが許されていたのだ」と思いました。「ではなぜ私には一度も書いてくれなかったの?」とも。手紙の中で自分の名前を探しました。一人娘のことが頭に浮かぶことはなかったのか?1,2通の手紙の中に、このような文章を見つけました。「娘によろしく。」それだけでした。たった3つの言葉。

■見つけたものは何であろうと食べていた

問い:その後あなたは摂食障害を引き起こしました…
答え:ええ、母のもとから離れファトシュの家に移り住んでから始まりました。ひたすら食べていました。見つけたものが何であろうと、口に運んでいました。父は一度私を捕まえ、「排泄物でも食べてしまいそうだな!」と言いました。本当にそんな感じでした。目に見える形で、私は太っていきました。虚無感を埋めようとしてです。そしてもちろん、父は私をいつも「デブ娘」やら「バカ娘」と呼んで愛してくれました。この行為を愛と呼ぶならばですが…。学校でも先生たちは私を叱りました。名前にふさわしくないようです!これほどの成功をおさめた人間の娘は成功するのが当然らしいのです!勝手なものですね!みなの顔に「私が経験したことを知っているの?」と叫びたかったです。父の目には私の姿は何も映っていませんでした。非凡な父の、できない娘だったのです!

■母とは清算できたが、父とはできなかった

問い:この当時、お父様はあなたにいつもレーニンやマルクスを読むよう望みましたね…
答え:ええ。しかし、父の理想なんかには、何の関係はありません。「社会主義とは何か?」と父は問いましたが、答えることができませんでした。時折父 は、私を好きな男の子から来た手紙を取り上げました。手紙では「僕の黒いチューリップ」と私を呼んでいたようです。私に自己批判するよう父は求めました。彼の娘であったために、私に関心を持ったのだと父は言いました。「その通りだ」と思いました。「私はデブでバカで、ブスだ。誰が私と付き合うというのか?」とてもつらい日々でした。「私の人生を悪くするだけの人々以外、一体私に何があるというのか?」と考え続ける日々でした。その後、結局パリでの日々が始まります…

問い:お母様の職業は、あなたにとって問題となりましたか?
答え:もちろん。何年間も「ナイトクラブで働かず、家にいればよかったのに。もしくは家政婦として他の家に掃除にでも行っていれば、離れ離れになる必要もなかったのに」と思いました。しかし大人になってから考えは変わりました。人間は、子どものためにどれだけ自分の情熱に目をつぶるべきなのでしょうか? (そもそも)目をつぶらなければならないのでしょうか?

問い:しかしお母様には示した忍耐強さを、お父様には示しませんでしたね。お母様が母親となれないことを受け入れる一方で、お父様が父親となれないことを受け入れられないのですね…
答え:母のことはどんな状態でも受け入れました。生きていましたから。母とは話すこともできましたし、清算することもできました。「なぜ私を見放したの?」と、母の顔に向かって叫ぶこともできました。おそらく、今でも父に対してこれほど厳しい態度をとる理由は、このような母とのやり取りのどれ一つとして父とは話すことができなかったことです。おそらく、父が生きていたら、このような本を書くことはなかったでしょう。なぜなら父とも容易に喧嘩できたからです。「お父さん、お父さんは自分の理想の代償を私たちに支払わせたのよ!」と言えたでしょう。「芸術の償いを私たちが支払ったのよ。私たちの人生は台無しになってしまった。お父さんの名前や理想は、私たちに重くのしかかったのよ」とも。弟のことは知る由もありませんが、少なくとも私自 身に関してはこれだけは言えます。ユルマズ・ギュネイの娘であることで、人生を台無しにしたのです!

■エリフはおらず、ジェニーがいる

問い:そしてパリでの冒険…
答え:15歳のときでした。2週間の予定でヨーロッパに行きました。つまり、そう思っていたのです。でも戻れないことになってしまいました。まずファトシュと弟が行き、その後に続いて私が行きました。フランスに降り立つと、父もそこにいることを知りました。ショックでした!ショックは後からじわじわやって来ました。私たちの生活は一瞬で変わりました。もはや政治難民なのです。誰も知り合いはおらず、フランス語の単語一つ知りません。エリフ・ピュトゥンはもはやいません。ジェニー・ マルケスがいます。コロンビア出身です。亡命者なのです、逃亡者なのです…

問い:その名前は誰が決めたのですか?
答え:父です。作家の(ガルシア・)マルケスが好きだったからでしょう。父の名前はホセ・マルティーノ・マルケス、ファトシュはヘレナ・マルケス、弟はレミー・マルケスでした。コロンビア出身という設定でしたが、スペイン語も知りませんでした。これらすべてが信じがたいほど衝撃的なことでした。最もショックだったことは、 母と非常に長い期間会えなくなることでした。それでも「15日後には会える」と自分に言い聞かせました。しかしトルコに戻ることができたのは20年後でした…

問い:その亡命の日々は、あなたにどのような跡を残しましたか?
答え:深刻でした。あらゆることから切り離され、完全に自分の世界に閉じこもっていました。父はひたすら働き続け、死ぬまで働いていました。一度、父はファトシュとともにカンヌに行き、映画賞を受賞しました。これは世界で最も素晴らしいことでした。父とその栄誉を分かち合いました。父は「天才」であり、また「理想の男」でしたので、どこに行っても敬意を呼び起こしていました。私はというと、父にいつも恥をかかせる娘であり、非常に大きな失望(を呼び起こす存在でした)。少なくとも成績をよくしようと、なんとか父に気に入られるためにとても努力しました。そのときも、「バカじゃなければこんなに努力する必要もなかったのに」と言われました。私の人生はこんな形で続いていきました。父が胃がんになるまでは。

■どんなことも3年間に詰め込んだ

問い:お父様とずっと一緒にいた時期もこの時期でしたね…
答え:ええ、この3年間です。そしてすべてのことを詰め込もうとしました。人生、作品、配偶者、息子、理想、父がしたかったこと、夢…。父にとって残念なことでした!映画を作るつもりだったのか、市民にメッセージを送るつもりだったのか、配偶者と過ごせなかった時間をともに過ごすつもりだったのか、息子と関わり合 おうとしたのか、それとも未婚の娘とよく知り合うつもりだったのか?その一方で、ガンであることもわかりました。父には私の父親になるチャンスはありませんでした。私にもまた、ふさわしい娘になるチャンスはありませんでした。父は47歳でこの世から旅立ちました…。

問い:その後は…
答え:その後はひどいものでした。長く続いたセラピー。30キロ体重を落としました。何年間もひっそりと隠れていました。トルコに戻る勇気が持てなかったのです。「ユルマズ・ギュネイの娘はこんなだったか?」と言われると思ったのです。その後勉強して教師になりました。20年間、自閉症の子どもたちのことに携わりました。彼らは私に沢山のことを教えてくれました。家族セラピーの専門家となりました。今は愛する夫と二人の子どもがいます。45歳になり、そろそろ自分自身と折り合いをつけたいと思っています。過去や家族、そして父と。私はこの本を、父を踏みにじるため、父の周りにいる人々に被害を与えるために書いたわけではありません。私の苦悩や、今まで続いた「自分らしくなるため」の格闘を、そろそろ終わらせるために書きました。改善されたいのです。私の中の小さな娘の痛みを止めて欲しいと望んでいます…。

(続く)

(注)女優。ここ最近ではテレビドラマ「禁じられた愛」の主人公ビヒテルの母親役のフィルデウス、「華麗なる世紀」のスレイマン大帝の母親役を演じている。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:25119 )