Nuray Mert コラム:トルコ・オリエンタリズム、中東、イラン
2012年02月02日付 Milliyet 紙

トルコの中東アプローチ政策は、当初は極めて友好的な言葉の中で表現がなされていた。その後、事は複雑化した。イランとシリアの枢軸が、西欧諸国の標的となり、トルコは難しい二国間関係にひきこまれた。この間、イランに対して用いられる言葉も変化し始め、保守的なメディアはこの話題について、米国外交政策を軸とした周辺と言葉を同じくし始めた。イランの政策について、「イラン人の嘘」、「イラン人交渉」、「イラン人ゲーム」といった言葉は、ここにきてメ ディアで広がり始めた。これらの言葉は、確かに新しいものではなく、また疑いなく最も冷たく、まさにオリエンタリスト的精神の現れである。

■見下した視点

にもかかわらず、「アラブの春」のプロセスにおいて、アラブ人に関するこの種の「トルコ・オリエンタリズム」の側面が現れ始めたことが、どういうわけか見逃されている。一見、アラブ諸国での「自由」闘争に対して支援や共感に見える論評には、実はアラブ諸国の歴史、文化、政治的経験を見下す視点が反映されている。この視点にたつと、まるでアラブ世界が、オスマン帝国がこれらの土地を放棄して以降、さらにはそれゆえにジレンマに陥った状況にあるといわんばかりだ。さらに、まるでこの国々は、オスマン帝国が撤退した後、歴史の埒外に、深い凍結状態のままとどまったといわんばかりである。オスマン帝国の手を離れてから、数人の独裁者の手において無為に過ごし、今新たに起き上がろうとしているかのように紹介されている。しかしながら、オスマン帝国時代にアラブの各州とオスマン中央政府との関係が、地理的距離と戦略的な位置に応じてそれぞれ相当異なっていたのと同様に、(そもそも)オスマン帝国の支配下、特に19世紀末にどのような状況であったかを問うべきであるが、今はこれを置いておこう。

■受け身の歴史ではない

他方で、アラブ諸国と社会がオスマン帝国支配下から抜け出した後の歴史は、特にアラブの春以降に西欧メディアが紹介したように、全く「受け身」でも「静 的」でもなかった。近代アラブの歴史は、植民地体制への蜂起、独立闘争、社会闘争に満ちたものである。ムスリム同胞団の活動も、この生々しい歴史の一部である。今日彼らがたどりついたところを問うならば、まず何よりも冷戦時代に起きたことを取り上げる必要であり、これは誰においても都合が悪いことである。

それなのに、ギュル大統領がアラブ首長国連邦(UAE)訪問において、「この地域でオスマン帝国時代の帝国議会の後、初めての自由選挙が行われた」との形で説明を行ったのは、非常に不幸なことだった。まず、アラブの春の後に、民主的な選挙を行った二つの国のうちチュニジアとエジプトは、大統領が指摘した時代には(失敗した第一回議会後の、二回目の帝国議会時期には)とうにフランスと英国の勢力下に入っていた。チュニジアはその後植民地反対闘争を開始した。エジプトでも近代化運動が メフメト・アリ・パシャの指導下、(近代化運動の象徴ともいえる)タンジマートより前に始まっていた。スルタン・アブドゥルアズィズの時代に、メフメト・アリ・パシャの息子のイスマイル・パシャは正式なエジプトの「支配者(ヒディヴ)」となり、そのシステム、つまり自治の仕組みを構築した。エジプトで初の選挙は、イスマイル時代の1866年に実現となった。この選挙とそれに似たもの、そしてこの間のオスマン帝国時代の帝国下院議会選挙は、今日的意味での民主的な選挙ではなかった。エジプトで初の多党制選挙が1976年にサダト大統領時代に実施され、今日まで実施された選挙の全てが独裁的仕組みの枠内で実施されたのだけれども、しかしこれを見て分かるように、エジプトで目下生じている「過渡期」も明確な制限の枠組みを未だに完全に取り除けているわけではないのである。

■オリエンタリズム問題

ギュル大統領はまたオスマン帝国時代の帝国議会を取り上げて、今日のヨルダン国王の祖父であるアブドゥッラー国王がその国会で議員であったことに触れた。後世の視点で見ると、ヨルダン国王であるシェリフ・アブドゥッラーが議員になったことは、言うなれば民主的な選挙ではなく、ヒジャーズの太守シェリフ・フセインの息子だという個人的事情であった。さらに、最後のオスマン帝国時代の帝国議会は、アラブ民族主義メンバーでいっぱいである。アラブの議員たちの間で深刻な意見の相違があるにもかかわらず、アラブの各州(今日の言葉で)については、「自治」の問題が重きを得た。

要は、過去のオスマン帝国時代をアラブ人たちにとって最良のものであるかのように取り上げることと、オスマン時代後にアラブ人が今日まで「不活発な社会」を経験したとして仄めかすことも、ともに愉快なものではない。さらに、オリエンタリズムは単に西欧の問題だけではなく、特に最近は、ある種トルコ・オリエンタリズム(と呼べる視点で)この地域をオスマン帝国時代の過去の枠組みの中で見ることが増えているのである。まさにこれ故に、アラブの春の過程において、オリエンタリズムに反対しているかのように振る舞うものの、実は新しいオリエンタリズム主義者の言説を設けた西欧オリエンタリズムと出あうのである。最後に、ギュル大統領に、彼が自由と民主主義の呼びかけを行った場所が「アラブ首長国連邦」であった不自然さを喚起しておきたい。

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( 翻訳者:石川志穂 )
( 記事ID:25433 )