Ali Bulac コラム:サイイド・クトゥブとトルコ・イスラーム
2012年05月26日付 Zaman 紙

ムスリム同胞団の出現とトルコにおける社会的イスラム運動との間には、興味深いつながりと、程度の差こそあれ、様々な類似点がある。

ムスリム同胞団は、1928年にハサン・アル・バンナー指導の元「政治的運動」として出現した。政治には間接的に関与していた。これは、エジプトが植民地統治の元にあったためであった。植民地統治下で行われるべき最も重要な仕事の1つは、もちろん植民地主義に対する戦争であり、植民地主義と闘うことであった。これが第一の目的である。それに並行して、おそらくはそれよりも前に行われるべきことは、植民地統治が社会構造にもたらす破壊を防ぐことである。これも大いに道徳的、精神的な強化活動であることが必要であった。ハサン・アル・バンナーが指導し組織した同胞団とその活動は、この目的を中心に据えていた。社会を知的、道徳的、精神的な観点から維持することは、抵抗を継続的に増加させることである。

ムスリム同胞団は、自由将校団の後、そして同胞団の主要な知識人らがパキスタン建国とアブー・アラー・マウドゥーディーの著作と出会った後、つまり1950年代に政治的運動として自らを再び定義した。これはハサン・アル・バンナーの死後のことである。

ムスリム同胞団が政治活動に変わったことで、サイイド・クトゥブのような人物が前面に立つことになった。そしてこれはもちろん、サイイド・クトゥブがトルコのイスラム主義者らに影響を与える重要な一因となった。この時期にも、トルコのムスリムたちは政治活動を始めていた。1970年代初頭、国民救済党(MSP)の青年組織では同胞団の本が読まれていた。中道右派と中道左派以外、すなわち資本主義、社会主義、共産主義、民族主義以外に自分の政治的路線を模索するムスリムたちにとって、サイイド・クトゥブが組織したイスラム運動は完璧に適合していた。(コーランの)注釈書の発表によってサイイド・クトゥブは広く受け入れられることとなった。サイイド・クトゥブが受け入れられたもう1つの重要な要因は、社会学者として社会をよく知っていたこと、西洋の概念を分析できる教育を受けていたこと、同時にイスラム的知識を持っていたことである。「コーランの陰で」という題名で注釈書を書けるほどの注釈の知識と、伝統的手法およびコーランの知識を持つ、特殊な人物である。

サイイド・クトゥブが政治的イスラム主義を代表する背景には、別の理由があった。ハサネイン・ヘイケルの主張によると、獄中でマウドゥーディーの著作を知ったことである。同胞団がモデルを模索していた時にインド半島のムスリムがヒンドゥ教徒から分離して独立国家建国の考えを持ったこと、またこれを主にマウドゥーディーが考案したことは、サイイド・クトゥブを大いに魅了した。カリフ制廃止後初めて、「イスラム」を建国イデオロギーに持つ「国民国家」が建国されていた。クトゥブもマウドゥーディーと出会って以降、より活発な政治的イスラム主義に至った。これもトルコでサイイド・クトゥブとマウドゥーディーがより求められるようになることに影響を与える要因となった。

サイイド・クトゥブの言葉は理解可能で、明確である。信仰から力を得る。議論の余地のない概念的な枠組みを描き、イスラムが政治的活動であると述べている。彼によると、現代社会は「ジャーヒリーヤの社会」である。ジャーヒリーヤを―イスラム以前のジャーヒリーヤを引き合いに―イスラム的統治以外の世界が制度化し支配的になるという意味で使っている。しかし西洋のイスラモローグと西洋メディアの主張に反し、言葉の上でどれほど鋭い構想があろうとも、サイイド・クトゥブはいかなる時も暴力とテロを提案しなかった。つまり、サイイド・クトゥブは政治的イスラムを代表していた。しかしこれが、暴力とテロによって達成される目標として提示したと言うことはできない。全く正反対に、彼によるとイスラム運動は預言者の内面を追って成果に到達するのである。この意味で、サイイド・クトゥブとハサン・アル・バンナーの間には、おそらく言葉と表現の違いがある。しかし本質の違いに言及することはできない。間近で注意深く見た場合、サイイド・クトゥブとマウドゥーディーがトルコ人ムスリムに残したこの影響は、同時に(トルコにおける)政治的イスラム運動と社会的イスラム運動との両方が暴力とテロから離れることを可能にした。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:26507 )