最高指導者が禁止:「立ち止まること」「自惚れること」「奢侈に走ること」(1)
2012年06月05日付 Mardomsalari 紙

 イスラーム革命最高指導者は、イスラーム共和国の創設者の聖廟で行われた、イマーム・ホメイニーを慕う信奉者たちによる大集会のなかで、故イマームは国民の父であり、愛と力、そして堅き意志の権化であると述べた。

 イスラーム革命の偉大なる指導者の23回忌にあたる日曜日の朝、きわめて盛大に行われた式典のなかで、アーヤトッラー・ハーメネイーは、国民的名誉の精神の復活と国民の内面構造の強化に向けた、イマームの聡明なる努力について指摘し、次のように続けた。

〔世界の〕歴史を作ってきたイラン国民は、まさにこうした要素〔=名誉の精神〕に依拠することで、「世界の覇権を狙う者どもの影響を受けずに進歩を遂げる」というイスラーム的イランの成功モデルを他の国々に示し、力にものを言わせる世界の暴君たちを恐怖に陥れてきた。こうした輝かしき道は、進歩の頂きを登り詰め、また敵が完全に絶望するまで続いていくだろうし、ムスリム諸国民ならびにイラン国民の未来がこれまでよりも明るいものとなるであろうということに、疑いの余地はない。

〔‥‥〕

 アーヤトッラー・ハーメネイーは、この国の浮き沈みの激しい歴史について触れつつ、「われわれイラン人は自らの長き歴史のなかで、栄光と恥辱の時代を様々に目にしてきた。〔1979年の〕革命へと至る200年間は、恥辱にまみれた暗澹たる厳しき時代だった」と述べた。

 同師は、地域や世界から孤立し、経済の領域では日増しに後退を続け、科学技術の分野では甚だしき停滞に見舞われ、イランの各政権や為政者たちは植民地主義者や外国人の影響を浅ましくも受け入れてきたことなどを、ガージャール朝およびパフラヴィー朝時代に受けた恥辱の例として数え上げた。

 イスラーム革命最高指導者は、トルコマンチャーイ条約やゴレスターン条約といった汚辱に満ちた条約によって、何十にものぼる町が愛すべきイランから分離させられたことを指摘し、「恥辱に満ちたあの時代、外国人どもはパフラヴィー朝という傀儡的な体制を誕生させ、イランを政治的・経済的・文化的な侵略・掠奪の場へと変えたのだ」と続けた。

※訳注:ゴレスターン条約は、第1次イラン・ロシア戦争の結果、1813年に結ばれた条約で、ガージャール朝は現在のグルジアやアゼルバイジャン共和国に対する支配権や関税自主権を失った。トルコマンチャーイ条約は第2次イラン・ロシア戦争の結果、1828年に結ばれた条約で、ガージャール朝は現在のアルメニアに対する支配権を失い、ロシア領事による裁判権を認めさせられた。

 同師は、外国人たちの支配や暴虐に対する過去200年間のイランの為政者たちの卑しき行為の例を一部挙げつつ、次のように続けた。

もちろんこの間にも、アミール・キャビールや、タバコ事件におけるアーヤトッラー・シーラーズィーのファトワー(教令)、立憲運動や石油国有化運動におけるウラマーたちの関与といった例外もあるにはあったが、しかしこうした例外は短期的なものであったか、あるいは総じて不成功に終わり、恥辱と非力が、歴史を作ってきたこの偉大なる国民に押し付けられたのである。


※訳注:アミール・キャビールは19世紀半ばに活躍し、イランの「近代化」に尽くした宰相。タバコ事件とは、1891年にガージャール朝がイギリス人投機家にタバコの栽培・流通・販売に関する利権を譲渡したことに対して、イラン人商人らが反発して起こした、いわゆるタバコ・ボイコット運動のこと。当時のシーア派の最高権威であったシーラーズィー師がタバコを禁ずるファトワーを出したことをきっかけとして運動が拡大し、ガージャール朝は利権譲渡を断念した。この運動は、政治運動に対するウラマーの参加を象徴する事件として、1905年のイラン立憲革命への序曲に位置づけられている。

 アーヤトッラー・ハーメネイーは、偉大なるイスラーム革命は恥辱の流れを終わらせ、イラン国民の栄光を開始させる出来事だったとし、「革命の勝利によって、状況は一変した。イマーム・ホメイニーは国民的名誉の精神復活に力を集中させることで、『われわれにはできる』〔※〕という文化を、この信心深き国民の魂の奥深くにまで染み込ませたのだ」と強調した。

※訳注:「われわれにはできる」はアフマディーネジャード大統領がたびたび繰り返すスローガンの一つ。

〔‥‥〕
つづく


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( 翻訳者:8410157 )
( 記事ID:26682 )