Pinar Oguncコラム:家の中だけのクルド人、Twitterの中のクルド人、クルトルコ語
2012年07月09日付 Radikal 紙

トルコ語による「クルド人の物語」は常に暴力によって彩られてきた。『クルド国民(訳者註:クルド人たるトルコ国民)』(イレティシム出版)という本はこうした「中傷的、差別的なもの」からほど遠く、描写は真実に則している。
以前、あるブログで読んだ。メフメト・セルハト・パラトソイ氏は、大人になって学んだ自分のクルド語が子どものクルド語に及ばなくなったと書いていた。パラトソイ氏は自分の子どもたちに母語を身に着けてほしいと思っているが、彼自身のクルド語の語彙は5歳の息子と変わらない。歳のせいで言語の記憶力が衰えたことも嘆いていた。母語で5歳児のようにしか話せない大人・・・。
もしくはどんなに母語で詩を書いても、トルコ語で書いたもののほうが優れていることを心の底から分かっている詩人・・・。
クルド人でない人々は、権利というレベルで母語教育の必要性を理解し、母語を求める闘争を支持するかもしれないが、それぞれがこの言葉でこの哀しみを表現することはできない。それによって傷ついた者たちだけに可能なのだ。
トルコのメディアでは、トルコ語による「クルド人の物語」は常に暴力によって彩られてきた。そう、90年代の暴力はこのような形でしか伝えられなかった。暴力を丸裸のまま語ることによってしか、それを知らずに生きている人々の顔に真実をぶつけることはできなかった。
しかしたいていの場合は善意で始まったこれらの物語は、暴力を語ることで真実を語るという見地に立ったものであったので、まるで常により重い拷問を、より重い悲劇を語る必要があった。酷い身体的な暴力を受けなかったクルド人による権利要求は、無意味と化したも同然だった。最初に述べたように、これは哀しみを副次的なものに貶め、それゆえにさらに孤立させていくことになる。これが次第に一部のクルド人の中に、一種のセルフ・オリエンタリズム(自虐的オリエンタリズム)を生み出してきたと言うことも可能だろう。

■「クルド人じゃなかったら・・・」

イレティシム出版の新刊『クルド国民(クルド人たるトルコ国民)』('Kürt Vatandaş')において著者のハムザ・アクタン氏は、メディアから学校、兵舎から大衆文化にいたる幅広い分野において、「クルド人たるトルコ国民」であることがどういうことであるか考察している。広範な資料調査と、最新のインタビューによって豊かなものになったこの本で、「暴力の持つ中傷性や差別性」からほど遠い、多くのことを語ってくれる数々のエピソードに出会えたことにわたしは喜びを感じている。
たとえば、クルド人とトルコ人の結婚・・・。トルコ人の妻を持つ銀行員は、次のような「格差」を挙げている:「もし私が妻の家族とあまり連絡を取らなかったら、普通ならば離婚されてしまうでしょう。しかし妻はトルコ語が分からない私の母や、少しだけ分かる私の父とほとんど交流がありません。これまでクルド語を学ぼうという努力は微塵も垣間見られませんでした」。さらに問題が起きないようにと政治のことが分からないふりをする「慇懃な」クルド人の花嫁たちもいる。
クルド人の若者の志向に最も大きな影響を与えているものは、おそらく否応なく自らを政治化せざるを得ない(政治的にならざるを得ない)という義務感だろう。ある人は「もし私がクルド人じゃなかったら画家になったでしょうね」と言う。また別の人たちはダンサーやサッカー選手や料理人を挙げる。しかしこうした職業にはクルド問題に関わるとき感じるような「革命」を見いだせえないだろうと彼らは言う。彼らは燃えさかる政治問題を前にして、自分たちの夢を二の次にしたのだ。我々は主要メディアで(特に90年代に)働くクルド人新聞記者たちの精神状態を考えたことがあるだろうか?クルド語が分かるために「現地へ」派遣され、しかしながら持ち帰ったネタはイスタンブルやアンカラで全く別のタイトルをつけられ、テレビでは違うように脚色され報道された数々のニュースは、彼らが発信したものなのだ。その裏切りの感覚、心の分裂はいかほどのものか!クルド人の居住地域に派遣されたクルド人教師も同じ困惑を味わっている。言語の点で、トルコ語が分からない子どもたちの人生を楽にしてあげることができても、結局教える内容は同じだ。「東部出身」で権利や法について語らない愛すべきクルド人なら、人気者になりうるクルド人のスターたち;トルコ語化されたクルドの音楽を聴くこと、料理番組で名前が変わってしまったクルドの料理のレシピを見ることの意味・・・。

■トルコ国民たるクルド系住民

アクタン氏は、地球のさまざまな地域に住むクルド人をまとめあげる役目を果たしているソーシャルメディアをも、クルド人反乱という歴史的視点から分析する。オズギュル・アメド氏の「クルド人のソーシャルメディアと試練」(www.yusekovahaber.com)という記事を併せて読むと、ツイッターやフェイスブックでの活動の成果ばかりでなくその虚像も理解することができる。
この本では登場人物たちが、前述の状況をとても巧みに語っている。作家のエディプ・ユクセル氏の(訳注:「クルド語」と「トルコ語」を組み合わせた)造語「クルトルコ語」(KüTürkçe)がその一つである。
アクタン氏は、ギュルタチ・メンギュンオール氏の修士論文からネルミン女史の素晴らしい一説を引用している。「私たちは『家の中だけのクルド人』だ、外ではよきトルコ人として生活しクルド人であることを見せてはいけない。外に私はいない、家にいる」
この本を、最善の解決が「トルコ国民たるクルド系住民」であるとする人々が読んだらどんなにいいだろう。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:26966 )