東京モスクの建設にアタテュルクは関わっていない
2012年07月15日付 Zaman 紙


あたりは伝説にあふれています。ミーマール・スィナンが、皇女ミフリマーフに恋をし、会うこともかなわず、彼女のために二つのモスクを建て、愛をチュールのカーテンに託してモスクの壁につけた、というものもあります。

私たちが噂さえ知らない、その架空の愛に関する小説さえも書かれてしまいました。

そしてまた彼らは思い立ちました。なんとアタテュルクが東京モスクを建設したと言っています!アタテュルクはパリ・モスクに年に1万フランを送り、一方で東京モスクも建てたらしいです。詩人というより、「伝説メーカー」として活動するスナイ・アクン氏は興奮した様子で、「地球の最も東で、朝のアザーンを唱える最初のモスクをムスタファ・ケマルが建てた!」とテレビで話しました。1894年にイスタンブルに来て(しかし本当は2年前に来ました)、4年間滞在した(しかし本当は1914年まで20年間滞在しました)、山田という名の日本人は、「1930年代に」アンカラに来てアタテュルクに、東京にモスクを建てることを頼んだそ うです。アタテュルクも、「おお、それはとてもいい提案ですね。では私がモスクを建てましょう」と言ったそうです。その後、アタテュルクは山田のほうを向 いて、「先生、私を覚えていないのですか?私は士官学校にいたときに(しかし、当時はアカデミーしかなかった)あなたから日本語を学びました!」と言ったそ うです。拍手。

マックス・ホルクハイマーやテオドール・アドルノが、啓蒙の迷信に戦いを挑むとき、最も大きな「迷信メーカー」になったと言う人たちは、これであるはずです!分かることは、共和国をただ一人を軸として位置付けるために行う、「気ちがいじみた行為」は、これらにはありません。伝説を聞いてください、しかし歴史に耳を傾けてください。彼が何を言ったかが重要なのです。

■アブデュルハミト2世と山田寅次郎

トプカプ宮殿博物館を拝観する際には武器のコーナーに立ち寄るべきです。オスマン帝国時代の剣、矢、弓や、変わった鎧一式を見ることができます。日本のかぶとや鎧、装飾された剣を見ていると、その下には以下のような文章が書かれています:「山田寅次郎がスルタン、アブデュルハミト2世に献上した鎧一式と剣である。」そこでみなさんは次のような疑問を持つでしょう:「日本人はなぜスルタンにこのような貴重な贈り物を贈る必要を感じたのだろうか。」

1880年に、明治天皇の親戚がイスタンブルに来ました。アブデュルハミト2世は、このアジアの賓客に大きな関心を示しました。7年後には、今度は皇族の小松宮彰仁親王が親王妃とイスタンブルを訪れました。天皇の勲章と贈り物を持って自身のもとにやって来た賓客の訪問に喜んだアブデュルハミト2世は、1889年にエル トゥールル号によって答礼使節を送ろうと考えました。しかし翌年、痛ましい事故で沈没したその船は、同時にオスマン帝国と日本の友好の礎を築きました。この船は日本に贈り物を贈るだけではなく、同時に航路の周りにいるアジアのムスリムにとって道徳の源にもなっていたということも言いたいと思います。実際、寄港した港では、カリフの旗が掲げられていると言って、ムスリムたちが船を続々と見に来るような光景が繰り広げられていました。

日本人は、オスマン帝国のこの行動にどのように対応するか、戸惑っているようでした。1891年に野田という名前の新聞記者が、集めた義捐金をサイード・パシャに渡しました。スルタンはこの機会に彼を引き留め、士官学校の生徒に日本語を教えるよう頼みました。1892年4月、今度は山田の番になりました。(山田は)トプカプ宮殿にある、家宝の鎧、かぶと、剣をスルタンに贈りました。そして日本の人々が集めた義捐金をお渡した後、士官学校の生徒に日本語を教えました。

その後山田は、実業家になり、非公式に領事の役割も果たしました。中村という名の友人とともに、イスタンブルに一軒の商店を開きました。スルタンにより、勲章を与えられました。日本の新聞や雑誌で、トルコについての記事を書きました。宮殿を訪れたいという日本人の仲介をしました。さらに、現在「トラブゾン・ナツメヤシ」として知られる柿の苗木を、アブデュルハミト2世の要望を受けて植えたのも彼です(元の名前は「日本ナツメヤシ」でした)。日本人が有名な茶道の一つをスルタンとイスタンブルの要人に披露したことや、スルタンに日本の鳥を持って来たことなども分かっています。

山田は第一次世界大戦が始まると日本に帰り、エルトゥールル号慰霊碑の建立のために尽力しました。(ルュシュテュ・エルデルフン氏を再び話題にした親愛な るファーティフ・ウウル氏への覚書:エルデルフン氏も山田の親友の一人です)1930年に山田は、(「1930年代」ではありません!)アタテュルクの招待で共和国記念日に再びイスタンブルを訪れ、アタテュルクと会いました。

「新月」という名の回想記には、この面会でアタテュルクが自身を、「数年前に士官学校で日本語を学んでいた若い生徒の一人」だと言ったと書かれています(セルチュク・エセンベル(2010) 「新月と太陽」 イスタンブル調査研究所出版 pp.57)。この発言から、アタテュルクが、「先生、私を覚えていますか?私は士官学校であなたから日本語を教わりました!」と言わずに、ただ士官学校にいるとき日本語を勉強した一人だと言った、ということを私たちは理解しています。「日本語を学んだ一人」であることと、「日本語を教えた先生」というのは同じではありません。他に、公式な資料からアタテュルクが士官学校でドイツ語やロシア語の授業を受けていたことは知っていても、日本語を学んだことに関する証拠はありません。伝記や友人の証言からもそのような情報は得られません。

さて、東京モスクアタテュルクが建てたという話の番はいつ来るのか、みなさん気になっていると思いますが、もうそこまで来ました。

1938年に開設された東京モスクをアタテュルクが建てたということは置いておきましょう。非常に些細な物質的援助をしたことを示す資料さえ私たちは持っていません。どうぞ、首相府の古文書館や、労働銀行には彼の入出金の記録があります。資料を見つけてください、私たちは何も言いません。しかし噂で歴史の船は進みません。東京モスクをトルコは作れませんでした。なぜならトルコはその当時に政教分離を推し進めた国であったため、在日大使のヒュスレイ・ゲレデ氏 はオープニング・セレモニーに参加するのさえ避けました。(モスクを私たちが作ったなら、なぜ参加しなかったのでしょう?)イエメンやサウジアラビアからも使節団(ハフィ ト・ヴェヒブ)が、またムスリムではない日本人さえも式に参加したということを私たちは知っており、タタール人のアブデュルレシド・イブラヒム氏の他にトルコと関係のある人は誰も、参加したという情報を見つけることはできていません。モスクが、バシキール人を率いるムスリムらによって作られ、日本の人々が支援したということを私たちは知っています。東京モスクは第二次世界大戦で破壊され、その敷地は1986年、トルコに引き渡され、現存するモスクは 2000年にトルコの宗務庁によって建てられました。

山田の回想について近く出版するというボアジチ大学のセルチュク・エセンベル教授が、山田がモスクを作るためにアンカラに来てアタテュルクと話したということに一言でも言及しないことが十分な証拠ではないと思うなら、宗教百科事典の「日本」の項目と、アフメト・ウズンオール氏の「東京モスク」という本を見るとよいでしょう。それでも満足しないなら、東京モスクの公式サイトに行くとよいでしょう。
http://www.tokyocamii.org/publicViews/article/sayfacesit:10/language:2

この国の人々を何年も迷信家であると非難する一部の人たちが、21世紀に「啓蒙された迷信」に捕われているのを見ると、現状を憐れまずにはいられない。

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:27022 )