イラン社会にケンカが蔓延:対話文化が根付く代わりに暴力による問題解決が普及
2012年11月08日付 Jam-e Jam 紙


 警察もいる、法律もある。ところが面白いのは、イランで交通事故が起こると、ケンカが始まり、怒鳴り声が上がり、ときには運転手同士の物理的な取っ組み合いに発展してしまうのを目にすることが多いことだ。

 運転マナーだけでなく、人々の間で交わされる日常の交際の多くでも、われわれはケンカが起こるケースをしばしば見かける。

 〔役所や銀行などの〕職員が問い合わせに来た客に向かって怒鳴り声を上げる、客の方も激昂する、物を買いに来たお客が店員と値段をめぐってケンカをする等々、この種のシーンは無数に繰り返されており、このこと自体、社会にケンカと短気が広がっていることのはっきりとした証拠といえる。

 がまんの限界が低くなることで、暴力が危機回避のための手段になってしまっているようにみえるが、それだけでなく、この問題は社会に重大な結果を強いることになるだろう。すなわち、精神的安らぎを乱し、社会における労働・思考の生産空間を深刻な停滞に導いてしまう、という結果である。

私たちは話し合いをすることに慣れていない

 暴力は、一つの問題を解決するための、最も簡便な手段としてみなすことができるが、それと同時に、困難を最も伴う手段であるとも言える。簡便だというのは、暴力は緊張を取り除くための最も容易な手段であり、暴力という手段を選ぶことに、これといった技術や注意深さは必要でないからだ。また、困難を伴うというのは、暴力という手段を選ぶことは、それを選んだ人に悪影響を及ぼす可能性があるからだ。

 社会学者のマフムード・ナーセヒー氏はジャーメ・ジャム紙の取材に対して、暴力を選択する傾向があることは、社会に話し合いの文化が根付いていないことと直接的な関係があると強調している。

 同氏は次のように述べている。「社会問題が複雑化すればするほど、問題を解決するための手段を選択することは、より困難になる。しかし今日の人類は試行錯誤の末、自分と他人との間に生じた最も困難な問題や緊張ですらも、話し合いで解決することができるということを会得しているのである」。

 ナーセヒー氏は、対話の文化は決して短期間のプロセスで根付きはしないと指摘した上で、次のように述べている。

我々は次のことを受け入れなければならないだろう。すなわち、イラン社会は数千年にわたる王朝体制に慣れてしまい、緊張を解決する方法も通常、より力のある者、より影響力のある者が力と脅しによって、相手を屈服させるというものであった、ということだ。実際、力のある者は暴力を活用することによって、自らと他者の間の問題を解決しようとしてきたのである。

 同氏はその上で、「こうした長きにわたる歴史的経緯に鑑みるならば、緊張解決のための対話の文化が〔イランに〕ないのは明らかであろう。事実、誤解を取り除くための対話の技術は、本来あるべき地位を〔イラン社会の中で〕得てこなかったのである。こうした流れは、今日に至るまで、多少なりとも人々の中に見られる」と付け加えた。

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( 翻訳者:8410022 )
( 記事ID:28248 )