Mumtaz'er Turkoneコラム:アタテュルク、アタテュルク主義、ケマリズム
2012年11月17日付 Zaman 紙

一昨晩、アッバス・ギュチュル氏のテレビ番組「若い視点」で、アタテュルク主義について討論した。私の横には、「私たちの思想の道案内人」というタイトルを持つアタテュルク伝の著者、エロル・ミュテルジム氏、向いにはハリチ大学の学生と教員が座っていた。
会場の主体はアタテュルク主義の人々だった。若者は、率直で直接的な質問をしてくれた。私のような、頑固な反アタテュルク主義者にとって、非常にいい体験となった。
私は、アタテュルク・アタテュルク主義・ケマリズムという3つの概念の間にどのような違いがあるのかを、公的教育で洗脳されてしまっている人々に対し、一番わかりやすく区別するよう努めている。まず、アタテュルクだが、彼は1881年に生まれ、1938年に死んだ、一人の政治家だ。トルコ共和国の建国者でもある。ケマリズムは、彼が存命中に共和人民党の一党支配政府が依拠していた原則をさしている。共和人民党の記章にある6本の矢は、同時にケマリズムそのものともいえるものだ。実際、ケマリズムについて書かれた当時の文献は、国家主義、民族主義、革命主義、人民主義、世俗主義、共和国主義というこの原則を説明することに集中している。この原則の中に、民主主義はない。アタテュルク主義はというと、アタテュルクの死後ずっとたってから、1954年に発明され、(1960年の)5月27日クーデターののち、公式な国家イデオロギーに転化させられた思想の名だ。それゆえ、アタテュルク主義を、私は「クーデター・イデオロギー」と呼んでいる。政治競争の場で民衆的な基盤のないものたちが、優位性を確保するためにアタテュルクを利用し、そこに、それぞれの希望によって定義し、意味を付加した(複数の)アタテュルク主義が現れる。このそれぞれに異なるアタテュルク主義と、ケマリズムの共通の特徴は、民主主義に合致しないこと、そして少数者による独裁指向を反映していることだ。また、これらには一つの共通性がある。それはアタテュルク本人と何の関係もない、ということだ。なぜなら、アタテュルク自身は、自分のあとに教条や固定化した型を残さないといったにもかかわらず、政治家としてしばしば互いに矛盾しあう彼の言葉を使って、今日現在のために、ひとつのイデオロギーを作ろうとすることへの説明は、知性によっても科学によっても、できることではない。
アタテュルク主義は、今日のトルコに残る、原始的な教条主義だ。クーデターを起こし民主主義を凍結させたものは、アタテュルクの胸像や銅像の後ろに隠れて支配を続けた。教育をはじめ、手にあるすべての公的な手段を利用し我々の頭をこのイデオロギーで埋めようとしてきた。今日ここで、この馬鹿げた思想を今なお議論し、一部の人々がアタテュルクの遺徳にすがろうとしていることに対する説明は、この洗脳の影響という以外にはありえない。私たちは、小学校に入った日からずっと、しかめっ面のアタテュルクの胸像の前で「私たちの誓い」を読み上げ、あの胸像の後ろに隠れている軍人後見人たちに対する従属を誓ってこなかっただろうか?

ハリチ大学の学生たちに、これらのことを説明した。驚くべきことがおこった。理解と敬意をもって聞いてくれた。アタテュルク主義が、アタテュルク主義思想としてではなく、心理として、あらゆる場所で跋扈しているのを知っているので、この理解と敬意には感動した。今なお、アタテュルクの言葉から、今現在のために意味をひねり出そうとした出席者たちに対して、「アタテュルクはもう死んだんだ、それも74年も前に」といったときにも、学生からは反発はなかった。

イデオロギーには二つの作用がある。ひとつは、不満を感じている生活やその苦労に対し、それを耐えることを可能にさせる。二つ目は、皆を現実から引き離し、同じように考えるものと一緒に、想像の世界に閉じ込め幸せにする。アタテュルク主義とは、現在、努力し、プロジェクトを生み出し、現状を批判しそれを改善しようというような、改革、あるいは、革命の側にたつものでなく、惰性を決め込み、泣いたりわめいたりにしながら、アタテュルクの遺徳にすがろうとするという意味になっている。1980年9月12日クーデターが拡大させたアタテュルク関連儀式や、大学で教えられている「アタテュルク主義」の授業の成果が、まさにこれだ。このようなアタテュルク主義によって、どうして時間とエネルギーを浪費する必要があるのだ。これに答える、アタテュルク主義者は果たしているのか?

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:28266 )