ボルサン創業者アスム・コジャビュユク死去、記念の「現代美術館」創設へ
2012年12月30日付 Radikal 紙


アタテュルク期、民主党政権期、デミレル政権期、エジェヴィト政権期、エルバカン政権期、オザル政権期を生き抜いたボルサン創業者アスム・コジャビュユク氏の人生は、ある意味ではトルコ経済の歴史である…。

「会社の経営においては、常に公正であることに重きを置いた。社員の勤続年数が増えているからといって、辞めさせることはなかった。」
この言葉は、昨日何千もの人々によって最後の旅路へと見送られた共和国の第一世代の実業家の一人、アスム・コジャビュユク氏のものである。
トルコ経済のページは、1980年代以降、故トゥルグト・オザル大統領によって始められた(経済の)自由化の時代に開かれた。経済ジャーナリズムの先駆けとして、我々もトルコの産業における第一世代の実業家たちを知る機会を得てきた。アスム・コジャビュユク氏も長年我々が近くから見つめてきた一人の実業家であった。コジャビュユク氏は、イスタンブル産業家協会(İSO)、トルコ実業家協会(TÜSİAD)、そして一時会長を務めた経済開発財団(İKV)のようなトルコの最も重要な実業家団体の、創設者メンバーの一人だった。
アタテュルク期、民主党政権期、デミレル政権期、エジェヴィト政権期、エルバカン政権期、オザル政権期を生き抜いたコジャビュユク氏の人生はは、ある意味ではトルコ経済の歴史でもあった。

ボルサン社での実際の経営者としての権限を2001年に息子アフメト・コジャビュユク氏に譲ってからも、常に社会的責任プロジェクトでアスム・コジャビュユク氏は我々と顔を合わせていた。時にはタズラル村の学校開校で、またある時には芸術の催しで。
経営を譲っても、健康であった時にはフンドゥクルにある会社に通い続けていたコジャビュユク氏は、トルコにおける政治と経済の状況に常に関心をもっていた。彼は、トルコの目の前にある障害は、経常収支赤字と失業問題であると考えていた。コジャビュユク氏は、経常収支赤字を減らすために中間財の生産を増加する必要があると述べ、トルコの新たな投資におけるただ一つのチャンスは、新テクノロジーであると提唱した。

■政治にかかわらないように

アスム・コジャビュユク氏は、巨大な会社、本のテーマとなるような経験、そして子供たちが決して忘れないことを望んでいた数々の忠告を残した。彼の忠告の一つはこれだ:「政治にかかわらないように!」
彼はその理由をあるインタヴューでこのように説明している:「私も(政界入りの)申し出を受けた。しかし(政治にかかわることは)できなかった。なぜなら私の父の遺言があったのだ、政治にかかわるなと…。私も、今、同じことを私の子供たちに伝えている。」
このため、コジャビュユク氏は政治には一切近づかなかった。芸術にはあれほどまでに密接にかかわっていたというのに。
彼の芸術への接近は、同じく芸術を愛したネジャト・エジザージュバシュ氏の影響からだった。アスム・コジャビュユク氏のこの芸術への愛情は「政界に入るな」という遺言と同様、父から息子へと受け継がれた。ネジャト氏の息子ビュレント・エジザージュバシュ氏のように、コジャビュユク氏の息子アフメト氏も、今日トルコを世界へ紹介する芸術活動の舵取りをしている。
アスム・コジャビュユク委氏はもういない…。だが彼の思い出は、トルコで最も大きな美術館のひとつになる準備が進められている、フンドゥクルのボルサン社ビルに生き続けるだろう!
アスム・コジャビュユク氏が非常に大切にしていたフンドゥクルにある会社のビルは、2020年までに現代美術館に生まれ変わる。

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( 翻訳者:門野淑香 )
( 記事ID:28731 )