HERKÜL MILLAS投稿:「Türk トルコ人」か、「Türkiyeli トルコ国の人」か
2013年03月13日付 Zaman 紙

憲法で「Türk(トルコ人)」の代わりに「Türkiyeli(トルコ国の人)」と言われることを望む人々は、誠意をもって行動していると信じている。こうした批評の世界で、彼らがあのような「勇気ある」提言を発してくれたことで、彼らを評価している。まず始めにわが友、バスクン・ホジャを。彼らの目的はさまざまなエスニシティを持つ人々を安心させることであり、感情が先走りしない、抑制されたアイデンティティのための地固めをすることである。私も「Rum(ギリシャ系住民の意)」と呼ばれているために、私がこのような提案を支持することを期待する人が現れるであろうことは予測できる。しかし、「Türkiyeli」と言う言葉は、全くピンとこない!

この問題は、政治的な問題でも、国籍の問題でもあるいはアイデンティティの問題でもなく、思うにまずは言語学的な問題である。これが理解されないまま、(このことに)耳を傾けない人達の会話が続く。全ての言葉にはそれ特有の表現がある。全ての単語が他の言葉に翻訳できるわけではない。この例えが、役立つだろう。私はギリシャでユヌス・エムレの翻訳本を出版したが、その序文を書いてくれたのがトルコ人(トルコ国の人)のある大臣であり、彼の叙事詩的な文章を私が(トルコ語からギリシャ語へ)翻訳した。一つのパラグラフの中にkalbと yürekとgönül(訳者註:すべていわゆる「心heart」と訳せる単語)と言う単語が使われていた。かの言語(ギリシャ語)にはこのような単語はない!西洋諸言語では(この意味を表すのに)3つではなく1つの単語で表される。(このパラグラフの中で)同じ単語を3回使えば、文章は意味が取れない可笑しなものになる。仕方なく、訳のその箇所は、自分でアレンジすることにした。

トルコ語でキプロスの住民は「Rum」と呼ばれる、私もだ。しかし、英語を話す時(オフィシャルな場で)は、「Greeks of Cyprus(キプロスのギリシア人)」や「Greeks of Istanbul(イスタンブルのギリシア人)」と我々は言う。と言うのも、我々が意図するところを理解してもらいたいからである。では「Türkiyeli」と言う単語を、正式な表現として我々はどのように訳すことになるのだろうか?「Turkish」もしくは「from Turkey」か?! 「Turkish」と言う英語の単語には2つの意味がある。形容詞では「トルコの/トルコに特有の」、名詞としては「トルコ語」である。しかし、両方とも、名詞である(人を表す)「Türk/Turk」に対応するものではない。ある「Türkiyeli」が、国民(国籍)と言う意味合いで、「君はなに人?」と英語で問われれば、―私はこの質問を何百回も受けてきたが―何と答えたら良いのだろうか。「From Turkey(Türkiyeli)」 と言う答えは、 「君はなに人?」 という問いではなく、 「君はどこからきたのか、出身は?」という問いの答えである。このように答えれば、相手は、我々が英語を分からないと決めつけるだろうし、そうであっても我々を「Türk」であると判断するであろう。

なぜなら、我々が暮らしている国民国家の時代には、あらゆる言語に国民(国籍)という文脈で一つの「意味」と単語が生まれた。(多分そして間違いなく、「我々は全く関係ない(国民を表す)英語/ヨーロッパ言語を用いて、トルコ語に関する問いへの解答を探している」という態度への答えもここにある)。選ばれた単語の起源は古いものである。あらゆる国の国民は(文法的に)、形容詞ではなく、名詞により表現される。French(Fransızフランス人)、American(Amerikalıアメリカ人)、English(İngilizイギリス人)のように。「Amerikalı(アメリカ人)」と言う単語は「どこからやってきたのか/出身」は表さず、国民を表現している。ある人がハワイ出身で、アメリカ本土に行ったことがないとしよう。しかし、「Amerikalı(アメリカ人)」なのだ。しかし、トルコ語の「Türkiyeli」はこのような意味をなさない。この単語はあくまで地理的表現なのだ、さらに名詞でなく形容詞なのだ。このことが一番はっきりするのが、この単語を別の言語に訳した時なのである、そのため(上で)翻訳例を挙げたのだ。

この単語が(トルコ語で)名詞のように使われるようにしようではないか、といわれるだろう。しかしこのままでは言語学の「禁止事項」に引っかかる。言葉にはそれ自身の決まりや用法がある。言語とは、言語工学をもってしても明確に説明できるものではない。何百万もの人々にある単語を浸透させることは、決して簡単な事ではない。人々の言葉は堅固である。特に、私の言葉は堅固だ。善意の提案であっても、何百年もの習慣が重なって出来上がった言語学の境界線を越えることは難しい。「不可能」ではないかもしれないが難しい。「Türkiyeli(Turkish/From Turkey)」である者は「Türkiye vatandaşıトルコ国民」でもありうるし、「Almanドイツ人」である可能性もあるのだ。全ての「Yunanlıギリシア人」は、ギリシア国民であるが、「Yunanistanlı(ギリシア国の人/ギリシア出身)」はフランス国民(国籍)である可能性もある。言葉の構造や機能上から言うならばであるが。その国民としての名称を使いたくないと思うものは、「さらに」、当然自らの起源や別のアイデンティティを表明しなければならない。これは別の問題である。

さらに「Türk」と言う単語に反発を覚えるというなら、「Türkiyeli」に対して反発を覚えなくていいのだろうか?この程度で過度に敏感になることをどうにか(ならないように)解決したいのなら、言語ではなく他の分野で解決策を探すべきだ。国民(国籍)と言う意味合いにおいて「Türk」と言う単語が、いくつかの反発を生むなら、この原因は単語自身にあるのではなく、トルコという国や一部、社会がそれをどう使っているかにあるのだ。全ての国民が過去(起源)を中央アジアに求め、他のエスニシティの存在を無視し、さらにはその存在を抑圧し、トルコ語以外の言葉の禁止、もしくは蔑視、国民の間の言語、宗教、出自をもとに差別をすること…これらすべては「Türk」や「Türklükトルコ人であること/トルコ人性」のためになされてきたので、様々な反発が生まれたのだ。もし全く逆であったなら、つまり「Türk」と言う単語が、真に「包括的な実践」のシンボルになっていたら、つまり、発言のなかだけでなく、憲法のなかにも1つの文として残っていなかったならば、今日の「Türk」と言う単語は、問題あるものにはならなかったのに。

問題解決の道は、多くの時間が費やされたにもかかわらず、再び「憲法上の国民性」の中から出てきている。しかし、発言(この言葉を口に出して言うこと)についてではなく、実践(Türkという言葉の使い方)についてお話しする。例えば、教科書が、今日そうであるように、「Türk」と言えば、スンニ派イスラム教徒だけ、また母語をトルコ語とするもの、そして起源を中央アジアに求められるもののみを意味するなら、もっとも基本的な権利である母語の問題で解決策が期待できるとしても、問題はもちろん解決されないだろう。さらに、憲法に「Türkiyeli」と言う単語を入れるなら、一部の人々は当然のこととして「この意味合いにおいて私は「Türkiyeli」ではない」と言うだろう!

国民(国籍)の意味(定義)が定まらないところで、つまり国民の間に平等が確立されない環境で、排他主義的な単語をいくら選んでも、しばらくすればその単語に対して反発が生まれるだろう。「Türkiyeli」と言う単語が使われても、偏見に満ちた、差別的な、そして人種差別的な「Türklük」が作られれば、もちろん一部の人々は、「Türk/Türkiyeli」を聞くと、不快に思うであろう。喜びは、言葉によるのではなく、実践によって生まれてくるのだ。

国に帰属するということ(意識)も、社会的関与も、調和も、それなりの実践があってもたらされるのである。現代的な意味合いで国民と国民国家とは、平等な市民権(国民としての平等性)に基づき形作られる。この平等が、実践という枠組みにおいてではなく、概念としてとどまる限りにおいて、「いかなる言葉」を用いたとしても解決策にはならない。「どんな言葉が用いられても無駄だ」とは言わないが、「言葉」で解決策を探すことは、本質に触れないようとするごまかしとみなしうる。さらには労多くして功少なしである。

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( 翻訳者:田中けやき )
( 記事ID:29484 )