Güneri Cıvaoğluコラム:ファトヴァ(宗教的判断)、クーデター、民主主義
2013年07月12日付 Milliyet 紙

エジプトにおけるクーデターは「イスラムと民主主義が共存可能か?」という議論を再び我々に提示した。
「可能である」という意見の者たちは「トルコモデル」を例にあげている。
ここで「紋切型の」容易さに注意していただきたい。
トルコ共和国は「イスラム国家」ではない。
「世俗国家」である。
トルコ国民の99%以上が「イスラム教徒」であることと、「世俗国家」であることは全く別の問題なのである。
定義によっても明確に国家と宗教関係のことは分けられている。
法や国家事業はトルコ大国民議会が出した「人工の」法律やそのうえにある憲法に従って行われる。
イスラム国家であったならば、憲法に「シャリーア」の言及があったはずだ。
以上の事からこの「ポイント/違い」は明らかである。
(イスラム国家では)シャリーアの法源を参照したイスラム学者たちの宗教的判断が介入する。
現代的な法体制の憲法および法律の条項を参照した宗教的判断などあり得ない。
エジプトへと話をもどそう。タハ・アクヨル氏(ヒュッリイェト紙コラムニスト)はこの状況をうまく解説した。(ヒュリイェット紙7月11日付…私のコメントはアクヨル氏の目的とは合致していないかもしれないが。)
引用する。

エジプトでのクーデターに対し、イスラム-アラブ世界では2つのファトヴァ(宗教的判断)が出された。アズハルのシャイフであるアフマド・アッ=タイイブ師はクーデター参加者の前線に立つとともに、クーデターを容認したファトヴァを出した。これに対し、彼のほかに知られているイスラム知識人のユスフ・アル=カルダヴィ師はクーデターを否定し、ムルスィー氏の支援を求めるファトヴァを出した。
どちらが正しいのだろうか?私はいずれも重要視していない。なぜなら、事件をファトヴァではなく、民主主義の視点から見ているからだ。
さらにいうと、「果てしない海」といわれる法解釈学から、様々な方向性を持つ政治的ファトヴァの根源を見出すことはそう難しいことではない。

■アブドゥルハミドに対抗して

統一派(訳注:「統一と進歩委員会」オスマン帝国末期の政治組織)たちは、アブドゥルハミド2世を退位させる目的で議会の決定と並んで、世論を説得するためにファトヴァの必要性を感じていた。要約すると、「宗教書の焚書を命じた暴君を退位させることは許されることか?」。答えは「許される。」
ファトヴァが書かれるとき、「宗教書は処分されたのか?」という調査は行われなかった。確かにアブドゥルハミドはいくつかのハディース本を集めて焼かせたのだった。というのも、イギリス人やアラブ民族主義者らは、カリフはアラブ人でなければならないという、古いが根も葉もないいくつかのハディースを使っていたからだ。これは、オスマン帝国に向けての心理戦だった。アブドゥルハミドはこの本を焼かせた。そして、実証哲学者の青年トルコ人らは、宗教書を守るためにイスラム主義者アブドゥルハミドを退位させた。ファトヴァはこのように「使用可能な」ものなのだ。

■イスラムとクーデター

手法的な視点から重要であるのは、「ファトヴァ」が「事実調査」が行われないまま書かれるということだ。拘束力もない抽象的な名前で抽象的な質問を問い、抽象的な答えを出す。しかし、具体的な政治的事件において,この答えが「ファトヴァ」として使われるのである。。
だから、政治的に求められるようなファトヴァを生み出すことが可能なのだ。確かにムスリムは、信仰や礼拝というテーマについて宗教学者たちへファトヴァを問うことはできる。これは当然のことである。しかし政治的なテーマにおいては、ファトヴァをあまり重要視しないことが必要だ。
たとえば、イスラムを活気づける意図をもって行われている軍クーデターを考えてみてほしい。パキスタンで国民の自由投票によって与党となった左派のズルフィカール・アリー・ブットを「内戦を防ぎ」、「法律をイスラーム化する」目的で打倒した、1977年のイスラーム主義者ズィヤ―・ウル・ハク将官のクーデターを。当時、我が国の「国民の視座」は、この将軍を大いに評価していたのだ!
このクーデターにより、信条や解釈の違いが浮き彫りになり、衝突が起こり、パキスタンは混乱に引きずり込まれていくのだった。以前私は、著書『メディナからローザンヌへ』でこれを解説した。

■民主主義は簡単か?

イスラム世界、また一般的にアジア、アフリカにおいて、新しい「立憲政治」の理解が必要なことは明らかだ。もはやファトヴァや宗教、 あるいは実証哲学イデオロギー的概念ではなく、明確な「国民主権、人民統治、自由選挙、財産」といった、世俗的で民主的な概念に基づく立憲政治の理解が必要である!
「トルコの春」は1950年に実現した。多くの危機や、問題が起こった…。それからかなり経ったが、いまだに我が国の民主主義には問題が残っている。
アラブ世界の“春”は、全くもって新しい、たくさんの未知の事件、問題を経験しながら発展していくだろう!西洋においても、民主主義は大きな問題を経て発展したのだ。民主主義の他に道はない。必要なのはこれを理解し、距離を縮め、また調和的で穏健な行動によって危機を緩やかに乗り越えていくことである。成功を祈ろう…。

■穏健な民主主義はありえない

トルコをモデルとみなしつつ、西側諸国は「穏健なイスラム/穏健な民主主義」セオリーの構築を試みた。
アラブの春は「試験研究所」のようだった。「民主主義を発酵させてみよう、成功するだろうか」という試みだった。
私は心からの誠意をもって、イスラム世界において民主主義のタネが発酵することを願っている。しかし…。
私は「少しだけイスラム的」のように無意味な、「穏健なイスラム民主主義の定義」というセオリーが世に根付くと思っているわけではない。
民主主義は、特に「+民主主義」あるいは「先進民主主義」が自らを押し付けている21世紀にあって普遍的なものだ。
「少しの」だとか「穏健な」民主主義などない。
このため、国家は完全な「世俗的」モデルで作られ、発展しなければならない。
エルドアン首相も「アラブの春」プロセスに際し、北アフリカ諸国に行った訪問において「世俗国家」の必要性を強調した。
........................
『世俗国家』を著したアタトゥルクへ、改めて感謝の意を表したい。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:桑迫静香 )
( 記事ID:30792 )