宮崎駿監督へ、敬意をこめて
2013年09月08日付 Zaman紙

ヴェネツィア国際映画祭にて宮崎駿監督は長年の映画制作から引退することを明らかにした。

このニュースが映画ファンにとってどういう意味を持つのか、どうやって説明すればよいだろう。長年、忘れられないほど美味しく出来のよいパンを焼いていた窯の閉鎖を知ったような…、とでもいうのが適当かもしれない。

さて、宮崎駿の名を聞いたことすらない、あるいは彼が誰なのか知らない、偶然にも彼の作品を観たことのない人達に、宮崎駿をいかに紹介したものか?もちろん文章でもある程度の紹介は可能だが、一番の方法は落ち着いて宮崎作品を鑑賞する機会をつくることだ。

こう書けば「わかったけど、作品を探す方法は?」とおっしゃることだろう。インターネット上で競い合う映画紹介サイトのどれかを訪れれば宮崎作品がいくつも見つかるはずだ。宣伝する気はないのでサイト名は控えるが、とあるウェブサイトでは7作品が今すぐ見てくれと待ちわびている。読者の興味をそそるべく作品名を記そう。『崖の上のポニョ」、『となりのトトロ』、『Rüzgarlı Vadi(風の谷)』とトルコ語訳された『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『天空の城ラピュタ』、最後に『ハウルの動く城』。

もちろんこれだけではない。ほかにもあるが、判断材料としてまずは上記で十分だ。

さて、40歳以上の人々のための、ちょっとした備忘録:昔、TRT放送で放映されていて、私たちがすぐ夢中になった可愛らしいハイジのアニメ(『アルプスの少女ハイジ』)のことを覚えていますか?
宮崎駿は、思い出深いあのアニメの場面設定と画面構成の担当者だ。
あの作品の可愛らしい動きや表情が、最終的にオスカー賞まで受賞し、世界中でたくさんのファンに称賛されるほどの成功を収めた彼のキャリアの第一歩なのである。
「宮崎駿って誰?」という人にはささやかなヒントとなることだろう。

宮崎駿監督の作品は、基本的にペン、紙、インクで描かれる。より正確に言えば輪郭線を書いて色を塗るという方法だ。映画用語ではアニメやマンガといわれるジャンルだが、アニメは「アニメーション映画」であり、マンガは「漫画、コミック」である。つまりアニメとはある漫画作品を映画化させたものと言える。

なるほど、子どもの娯楽向けのアニメ映画か、と言われれば私は「まったくその通りです」とお答えする。子どもたちが夢中になって楽しむアニメ映画である。
そもそも宮崎監督のアートのすべてはそこに集約される。
彼の作品は、地球上の最も難しい問題、殺戮や大戦争、病、別離の悲しみ、愛、夢と現実のあいだにある絶望を、子供が理解でき、子供が語ることができる非常にシンプルかつ魅力的な言葉で視聴者に届けている。

その詩的要素は、まず彼の描く子どもの無邪気さ、純粋さ、美しさに始まる。
映画のどの場面も、全カットが壁に飾られることを意図されていたかのように美しく、まるでポスターのようなのだ。
そう、これらの絵のどれ一つをとっても、子どもの無邪気さ、純粋さのゆえに
それだけでは芸術作品としてアカデミックな意味での芸術的価値をもたない。
かつて家々や喫茶店を飾っていた「泣いている子供」の絵を覚えておいでだろう。あの絵もそうであった。
芸術的価値ではなく、言わば職人の仕事である。
世界中のマジメな美術館が認めずとも、市井の人々の現実や感情に訴えかけたときの反応は計り知れない。

私は宮崎監督の画力を過小評価しているわけではない。むしろ敬意を感じるとともに、かつて絵画に深い興味を抱いていた者の一人として、宮崎作品の映像美への憧れは日ごと高まるばかりだ。
彼の映画が単に次々と流れるイラストで構成されていると考えるのは重大な誤りだ。彼の映画を観ていると、祖父母の膝に無垢な頭を傾けお伽話を聞いていた子どもに戻ったようにに感じる。
それだけでも、宮崎監督を現代の最も素晴らしい語り部と称するのに十分な理由となる。

さて、あと残す作業は、検索バーに「ミヤザキ 映画 鑑賞」と入力しエンターキーを押すだけだ。素晴らしいことに、これらの映画は家族の最も幼い子から最年長者まで、皆一緒に満たされた気分で鑑賞できるのである。

作品をご覧になれば、私の言いたいことがわかるだろう。

最近のアニメ映画がいかに長大な進化を遂げてきたか、私はよく知っている。
現実とCGを見分けるのは映像のプロ達にしかできない技になった
し、コンピュータ・イラストレーションは映画産業に激的な可能性をもたらした。
そうした新基盤でアニメ映画をつくるには、成熟したアニメ・グラフィック技術と高性能のコンピュータ機材、あとは部屋が一つあれば十分だ。
限界はない。限界があるのは制作者の想像力だけである。

一方で宮崎作品は、現実をそのまま再現し、リアリティを突き詰めるという点では、普通の映画の隣にカラギョズ(トルコの伝統的な影絵劇)を並べたように映る。
いや、そもそも現実を再現するという考え方ではなく、彼は現実をもっとも単純な線にまで簡素化したうえで、最高の形と色を与え、別のアートにしてしまうのだ。
アニメ芸術を語るとき、宮崎駿の名が挙がるのにはそういった理由である。

そして宮崎作品には最初から最後まで無垢さが表現されている。私は今から10年も前に(非常に遅い出会いだが)初めて彼の作品を観た時に、私たちが「成人」と表する状況の存在に疑問を抱いた。本来あるのは子供らしさなのだ。従って、私たちは皆、ある意味では、髪が白くなり肌に皺ができ腰が曲がった子どもたちなのであり、子どもの無垢さに再び触れることができることこそ、皆の共通の願いなのである。
大人らしくあるためにしていることが、子どもの無垢さ、ひいては子供のロマンティシズムと並べられたときに、とても大きな価値をもつなどと一体誰が主張できようか。

子ども時代は天国のようなものだ。素晴らしい日々を思い出すときに良い記憶ばかりなのは、あの天国に戻りたいという気持ちがあればこそだ。清潔で明快で美しい世界。つまりこれが、宮崎監督が映画で成し遂げたものだ。 見る者に、映画の中に没頭して、彼らのなかで失われたものを描くことを通して。

世界がこんな風だったら、自分もこの作品の一部になれたら、と言わせることができるのは、とてもすぐれた芸術的価値だと思うのである。

宮崎監督はもう映画を作らない。しかし、これから彼の映画に初めて触れるという人も悲しむ必要はない。彼自身が監督し、脚本を書き、制作に携わった多くの作品がある。また彼が設立したスタジオジブリは、あのタッチで映画を制作しつづけるだろう。おそらくほかの監督の手によって。しかし、なおその味わいで。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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(翻訳者:原田星来)
(記事ID:31384)