Murat Yetkinコラム:2004年MGK議事録におけるギュレン論争から今日まで
2013年11月30日付 Radikal 紙

ギュレン運動が国家安全保障評議会(MGK)で議論された日々は、参謀総長が食事を家から持参する日々であった。

軍参謀組織において、フェトフッラー・ギュレン運動を、そして彼らとともに公正発展党を「撲滅する計画」が準備されていたことを最初に報じたのは、2009年4月12日付タラフ紙、メフメト・バランス記者だった。
記事における主張には一つならず重要な側面があった。
第一に、一年前の2008年に政権の座にあった公正発展党に対して、最高裁判所共和国検事局が起こした解党裁判の訴状内容の一部は、この意図によって「内部に」生みだされた疑念を契機としていた。憲法裁判所は、公正発展党を解党には処さなかったが、「世俗主義に反する活動の拠点となっている」罪で有罪判決を下したのである。[公正発展党とギュレンの撲滅計画を準備したとされる]ドゥルスン・チチェキ大佐とその[真偽が議論となった2009年6月の]「直筆署名」問題を思い出してみましょう…。事実、バランス記者がこの議論を追っていた当時、ベシクタシュにある裁判所を訪れ提出したスーツケース一杯の書類は、クーデタ謀計の訴訟であったバルヨズ裁判の開廷に大きな役割を占めた。
第二に、軍参謀組織において開設され運営されたと書かれた「フェイクの」あるいは「トラップの」いくつかのインターネット・サイトが問題だった。参謀本部のトップには、2008年8月30日にヤシャル・ビュユクアヌトから職務を引き継いだ、新司令官のイルケル・バシュブーがいた。バシュブーは、ビュユクアヌトとともに、その前の時代、つまり2002年から2006年の時期に参謀総長だったヒルミ・オズキョクを、世俗主義を盾に公正発展党に介入するために抑圧していた指揮官クラスの軍人に対して事実上守った人物として知られていたのである。

第三に、ビュユクアヌトは、アブドゥッラー・ギュル外相[当時]が大統領に選出されるのを阻止するために2007年4月27日付の電子メモランダムを送信させた後、5月4日に、タイイプ・エルドアン首相にドルマバフチェの執務室へ呼び出されており、その後、辛辣な政治的言説を控えるようになった。周知の通り、エルゲネコン捜査は2007年8月に始まった。バランス記者の記事では、バシュブーは、エルドアンによってこの職に任命されたにもかかわらず、自身の着任以前に始まっていた反政府運動を‐少なくとも‐止めなかった司令官として見られてきた。

■第一および第二の「撲滅」戦争

要約すると、バランス記者による2009年の第一の「撲滅」報道は、政府の背後にある票の力と、事実上軍のコントロール下にある司法と官僚の対応によって国家機関(一部の人々が「深層国家」と呼ぶもの)を文民の権限に引き継ぐ過程における、均衡を変えるターニング・ポイントになった。
エルドアンは、軍人に対する諸々の均衡を変える一方で、フェトフッラー・ギュレン運動を二つの面で味方につけた。一つ目は、警察および司法内部において長年、辛抱強く静かに増大した同運動の勢力だ。この勢力が政府と並んで活動したことが、エルゲネコンおよびバルヨズ裁判が、大激論によってであるにしろ、結審することに主要な役割を果たし、そして軍が政治システムから(参謀総長ウシュク・コシャネルと陸海空三軍の司令官の2011年7月29日の辞任によって)大規模に一掃されたのである。二つ目は、フェトフッラー・ギュレンが30年を超える活動のなかで初めて、一政党に対して公に支持を表明したことだ。エルドアンがギュルの、即ち大統領選挙の反撃として繰り上げた2007年選挙において、公正発展党に票の支援を行い、2002年には34%だったエルドアンの得票率を47%に急増させたことに、-経済の回復や軍人に対する反発とならんで-貢献したのである。

先日、2013年11月28日にタラフ紙のトップページに掲載された「フェトフッラー・ギュレンを撲滅する決定は、2004年に国家安全保障評議会(MGK)でなされた」とするバランス記者の記事は、ギュレンの(彼の表現によれば)奉仕運動とエルドアン政権のあいだで、私立のデルスハーネ[塾、予備校]に関する見解の相違がエスカレートしている時期に公表された。

別の言い方では、同じ記者の署名が入った「第二の撲滅」報道も、政府における公正発展党の権力がある諸分野で管理強化されるという動きのなかで、世論の関心を引いたのである。
私にとってはこれだけでも注意を引く記憶である。というのも、それは、MGKでギュレン運動が取り上げられたすぐ翌日の2004年6月25日に、ヒュッリイェット紙においてウウル・エルギャンの署名で発表されていたのだから。

バランス記者の記事によって、確かに、軍がギュレン運動に対して長年アレルギーを感じてきたこと、ただ、いまや軍の攻撃の背後には、エルドアン首相が署名したMGKの決定が存在したと理解されることが、示されている。この記事とともに想起される問いは、エルドアンは当初から、軍がギュレン運動に、つまり「ジェマート」に向けた攻撃に対し、ある種の「漁夫の利を得る」アプローチをとっていたのではないだろうか、ということである。同様に、共和人民党ケマル・クルチダルオール党首は、ギュレンに対して「偽善的」であるとしてエルドアンを非難していた。参謀本部が「宗教的反動との戦い」という名の下に実行し、バシュブーに重い禁固刑が科される原因となった活動は、首相の署名も入ったMGKの文書を通じて実行されたのではなかったか?

エルドアンの首席政治顧問であるヤルチュン・アクドアンは、ツイッターアカウントから、あのMGKの決定は政府によって「ないと同等」と見なされ、実行に移されなかったことを公表した。当時、国会議長であり、それゆえMGKメンバーでも閣僚でもなかったビュレント・アルンチは、公正発展党政権は「篤信者に反する」いかなる活動にも与しておらず、決断を下していないと述べた。
しかし、あのMGKで本当に何が起きたのかを理解するために、少し当時の諸条件を見てみる必要がある。

■時代の諸条件と国家安全保障評議会

記事で言及された2004年6月24日の国家安全保障評議会(MGK)は、政軍関係の観点から、かなり際どい時期に開かれた。
少し前の4月には、軍が政治に最も大きく介入する領域であるキプロスおよび欧州連合問題で、政府は大打撃を被った。ラウフ・デンクタシュ[北キプロス大統領]が腕まくりして始めたキプロスの[統一の是非を問う]国民投票で、トルコ系住民側は「賛成」したにもかかわらず、「反対」したギリシア系住民側がEUのメンバーとして承認され、トルコに与えられた禁輸措置の解除という約束は守られなかったのだ。アメリカとの関係は、前年のイラク[戦争における米軍のトルコ領内の基地利用]許可[の議会での否決]と、スレイマニエにおける「袋」事件[2003年7月、米軍がトルコ特殊部隊を急襲し11名の頭に袋を被せて連行した侮辱事件]の後、破局的な状況になっていた。アフメト・ネジデト・セゼル大統領と公正発展党政権は、互いを蛇のように嫌っていた。このような諸条件の下で、司令官レベルの有力な一グループが、参謀総長ヒルミ・オズキョクに、世俗主義を理由に政府に介入するよう仕向けたのだった。
オズキョクが随分後に私の質問に対して認めたことには(ラディカル紙、2008年7月13日)、「食事を家から持参した」日々であった。オズキョクは、これを軽食が必要だったためとしたが、政府は害毒の危険性に揺れていたのだ。

あのMGKに出席した指揮官クラスの軍人の中で、今日まで裁判にかけられていないのは、オズキョクと彼の陸軍大将アイタチ・ヤルマンだけであった。海軍大将オズデン・オルネキ、空軍大将イブラヒム・フルトゥナ、軍警察総司令官シェネル・エルイグル、そしてMGK事務総長シュキュリュ・サルウシュクは、暫定軍事政権を打ち立ててクーデタを起こす企てをしていた廉で、重い禁固刑に処せられた(その会議には文官のMGK事務総長はいなかった。アテネ大使イイット・アルポガンの任命は、セゼル大統領によって8月17日に承認され、アルポガンは、8月25日にタラフ紙の報道で取り上げられたMGK会議に、サルウシュクが第二軍司令本部に任命されたために、いわば「形式上」出席したと見られている)。

何であれ、あのMGKの後、ヤルマンとエルイグルの退役[両者とも2004年8月退役]によって別の時代が明けたことや、オズキョクが軍により支配力を持って安堵したことが、ジェット機のコックピットでの飛行、潜水艦での潜航、そしてこれらを世論と共有することで明らかになったのである。ヤルマンが2013年11月4日にヒュッリイェット紙とミッリイェット紙に載せた説明は、当時に関するさらなる詳細が明るみにでて、表面化することを期待していることを示した。

■ここで留まるか?

したがって、ギュレン・ジェマート、今日の名称で言うところの奉仕運動越しにエルドアン政権へ向けられた攻撃が、2004年6月のMGKでなされていたというのは、当時の諸条件に照らせば可能性はあったのである。エルドアンとその政権がディフェンスの立場にいたのだ。ディフェンスの立場から抜け出す際のギュレン・グループの支援は、世論に知られている。

軍人の一掃の後、ギュレン運動の影響力が及んでいた警察と司法に続いて、教育制度においても政府が権限を強化しようとする時代に我々はいる。このターニング・ポイントとして、2010年に[首相直属の機関である]国家諜報機構(MIT)のトップにハーカン・フィダン氏が任命され、さらに2011年に参謀本部の手にあった重要度の高い電子機密情報の管理権限がMITに譲渡されたたことが挙げられる。公正発展党の得票率50%による[2011年6月の総]選挙の勝利、コシャネル参謀総長の辞任、そして2012年初めについにバシュブーが逮捕されたこととエルゲネコン捜査の[特別権限]検事らによるMIT捜査開始の要求はすべて、その後に起きている。

したがって、バランス記者の「第二の撲滅」記事は、重要な新しい展開を指摘している。私はあまりこのスタイルでは書かないし、どちらかと言えばフェフミ・コル記者[スター紙]の記事を楽しく読む。しかし、情報通の友人が私に「時に、アンカラの検事たちがイスタンブルの検事たちを裁判にかけるということはあるのか?」と訊ねてきた。私は「わかるものか、なんでも起こり得るのだから」と答えた。これは、高等選挙委員会が、地方自治体の首長候補者になる予定の大臣たちはその職を辞する必要はないと決定する以前だった。ご承知のように、来年は3つの選挙[地方選、大統領選、新憲法に関する国民投票]が控えているのだ。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:32136 )