ギョルプナルルの息子、父を語る
2014年02月16日付 Yeni Safak紙


スーフィズム文学とディーワーン文学に関する仕事とともに「最後のオスマン人」の一人としてその名を刻んだ重要な文学史家のアブドュルバキ・ギョルプナルル氏の息子ユクセル・ギョルプナルル氏と、彼の父の私生活も含めた幅広い内容の会話を我々は実現させた。ユクセル・ギョルプナルル氏は、父が一時期アレヴィーの修道場にいたことや、「私はアレヴィーとして生きて書いた」と言ったことを話した。

1900年にオスマン帝国のイスタンブルで生まれ、その長い生涯の中で「ユヌス・エムレ詩集」、「フズーリー詩集」、「ネディム詩集」、「ハイヤームのルバイヤートとハジュ・ベクタシュの生涯」のような何十もの著作を残したアブデュルバキ・ギョルプナルル氏は、トルコ共和国のイスタンブルで1982年に亡くなったスーフィズムの研究家である。1945年に書いた「ディーワーン詩集に関する表明 Divan Edebiyatı Beyanındadır」で多くの人の批判を受けたギョルプナルル氏に関して、彼の死の32年後にカドゥキョイで古本屋をやっている息子のユクセル・ギョルプナルル氏と長い会話を我々は実現させた。以下が息子の口から 語られた、最後のメヴレヴィーの一人アブデュルバキ・ギョルプナルル氏のポートレートである。

―ギョルプナルル先生の一日から始めましょう。先生の一日はどんなものでしたか?
―父は毎日5時半くらいに、つまり朝の礼拝のために起き、礼拝のあとは朝食をとりました。しかし朝食でチャイは絶対に飲みませんでした。朝食の後に、チャイとたばこの時間が始まりました。「先生」はチャイの時間を別にしていました。朝食の後はもしその日を家で過ごすなら昼まで勉強をし、昼に食事をし、一時間の昼寝をしました。1時間後に起き、夜の12時までまた勉強をしました。夜の12時までは礼拝と夕食の時だけ休みました。ほとんど毎日このように過ごしました。

―外出する日はどのように一日を過ごしていましたか?
―家にいるときはこのような感じでした。家にいないときは大学図書館に行くか、スレイマニイェ図書館に行って昼をそこで過ごし、研究をし、そのあと家に帰ってきました。家に帰った後はまた12時まで勉強をしました。

―では、あなたの頭には絶えず本を読み研究する父として記憶されていますか?
―もちろんです。父が遺した作品を考えると、このような熱心な仕事をしなければ、それらの作品が生まれたでしょうか?さらにすごいことに以下のようなことをしていました。父はある問題についてコンヤに電話して何かを聞きました。例えばある情報です。もし満足しなければ、その部分はそのままにし、自身でコンヤに行って、気になったその作品を自分で見て調べました。これくらい仕事に真面目に向き合っていました。なぜならしっかりした作品はしっかりと取り組むことで生まれるからです。

―あなたの幼少期にあなたや子供達との関係はどうでしたか?
―以下のように言わなければならないでしょう、私との関係は自然でした。どこにでもある、距離のある関係でした。これはもちろん自然なものです。私も息子に対して距離を置いています。距離のある関係というのは厳格です。私の息子に対して、つまり孫に対してはそうではありませんでした。私も孫に対してはそうではありません。

―彼と同時代人である「古い」人たちの多くにこのような厳格さがありました。
―もちろんそれもあります。しかし父はより人間味のある人でした。つまりとても陽気な人でした。機智がありました。逸話語りが好きで、機転がききました。 父の話はその点からとても愉快なものになりました。そのためお客さんをもてなした毎週日曜日は、あるグループが去ったらまた別のグループが来てというように、ここに頻繁に来ていました。父の特徴は、誰かと話しているときでも書き続けられたことです。話しながら書くことができました。

■かなりの音楽の知識があった

―先生に関して多くの知られていないことの一つが音楽です。
―オメル・フェリト・カムさんの息子ルシェン・カム氏の論文を父が書きました。父には音楽の知識はありましたが主張はありませんでした。私的な会話や環境では歌も歌えば演奏もしました。しかしいかなるときも「知っている」とは言いませんでした。たとえばルメリの言葉とアナトリアの言葉を区別し、細かい点や違いを分かっていて、話していましたが、シェイフ(師)がヒュセイン・ファフレッティンである人物が音楽を知らないでしょうか?

―使っていた楽器はありますか?
―いいえ、楽器はありませんでしたが、とてもよくリズムをわかっていました。韻もリズムで教えました。一番よく聞き、歌い、気に入っていたのは「言わなかったかい、言わなかったかい / 心は君に言わなかったかい」で始まるのがありますよね、あれです。

■ハリル・イナルジュク氏の先生

―先生の先生たちや生徒たちについて話しましょう。たとえば現在、最高の歴史家として知られるハリル・イナルジュク氏は、ギョルプナルル氏の生徒の一人です。
―はい、バルケスィル高校の生徒です。アリ・アルパルスラン先生、ニハト・チェティンさんのような人たちがいます。しかしもちろん彼には、今思い出せない、知られていない何千もの生徒がいました。父のクラスは満員でした。ハイダルパシャ高校にいるとき、他の先生が父の文句を言っていました。校長が呼んで、「バキさん、先生たちが君に不満を持っている」と言ったそうです。例えば、「他のクラスの生徒が授業を抜け出して君の授業に来ているらしい」と言ったそう です。本当にどの授業も面白かったです。

―先生の先生たち、友人たちについて少し話しましょうか。これは大きな文化の環境です。
―父が賞賛して話し、いつも思い出していた先生はオメル・フェリト・カム氏です。彼の最大の先生です。いつも「もし先生が生きていれば、私がまた助手になれれば」と言っていました。また、父の先生たちの一人が知られているようにキョプリュリュ氏です。スヘイル先生(ユンヴェル)は同級生で、オルハン・シャフィイクさん(ギョクヤイ)は親友です。

―先生の蔵書について話しましょう。
―家にある本や書かれた作品、遺言に関しては父の死後、ファキール(スーフィー教団の一員)によってコンヤ・メヴラーナ博物館に送られました。死後10日目に電話して、博物館の館長代理が来て持っていきました。作品も額もです。今は印刷された作品は県の市民図書館に送られたと聞きました。電話すると、そこにあるほうがいいとのことでした。手稿は博物館にあります。228点の手稿と87点のイスラム書道の額があります。いま博物館ではすべてデータ化されていて、利用したい人に提供されています。

―わりあい最近にマフムト・エロル・クルチ氏の書いた文章がありました。その文章にはギョルプナルル氏に関するいくつかの主張がありました。つながりもないのに、彼のスーフィズムの知識に関することです。
―シェイフ助手としての父の部屋がありました。父は修道場長で、彼の冠り物の色は、なす紺でした。多くのことは言いたくありません。一部の個人は、耳から得た知識で動いていて、父がそうだったらいいと、彼が思うことを書いているのです。父に関して知りたいことがあれば来て尋ねれば私たちも説明するのですが。

■料理のこともよく知っていた

―アブデュルバキ・ギョルプナルル氏の私生活はそれほど知られていません。チャイ好きだった話をしてほしいのですが。
―はい。私たちには特に日曜日に、朝から晩までずっと湧いていたサモワールがありました。チャイはいつも用意されました。私は例えば来たお客さんと一緒に、すべてのお客さんと飲むために一日中約40杯のチャイを飲みました。もちろんカップは今と違って少し小さかったのですが。父も私たちも角砂糖をかじりながらチャイを飲みました。これはもちろん家族代々のものです。父にとってチャイは特別で、やる気をそこから得ていたといってもいいでしょう。

―では、似たように個人的に好きだった料理はありましたか?
―はい。父はとても料理が上手でした。素晴らしい料理を作りました。例えばイランの米で作られるチラヴという料理がありますが、それを作るのがとても上手でした。来たお客さんはこれを食べに来ていました。

―普通に我々が知っているピラフのようなものではないのですか?
―そういうものではありませんが、確かにピラフのような食べ物です。いろいろな米がありました。覚えているのは例えば、サドリ米、インド米、デュムスィヤフ米がありました。覚えているのはこれらです。もちろんこれらの作り方は違います。ゆでて作られます。違う出来事でしょうが、父は料理のことに関してすばらしく精通していました。例えば大きなアーティチョークの料理を作りました。

―料理に関して話す機会はありましたか?
―父は関心がありました。すべてのこと、見たことや知らないことすべてに興味を持っていました。料理もそうです。父の好奇心は、その偉大な業績を成し遂げることを可能にしました。

■今書いていればそこまで強くは書かなかった

―「Divan Edebiyatı Beyanındadır」を書いた後に彼が後悔したことが言われていました。これは本当ですか?
―「Divan Edebiyatı Beyanındadır」に関して父自身は「その本を今書いていればそこまで強くは書かなかった。そこでは必要ない強硬さを見せてしまった」と言いました。人の命は巡り巡って、あらゆる人間は段階を経る。人間は最終形態である。これは当時の心の状態と関係がある。

―関係をあなたにも言いましたか?
―その本の書かれた時代は、父が最も大変だったときです。1945年頃です。1944年から49年の間は最も苦しい時期でした。実際1949年に辞職しましたし。どれほどの人が「辞めさせられた」と言っても正しくはないでしょう。大学を自ら辞めたのです。

―先生は一党独裁期に10か月収監されていたことがあります。1945年に。
―彼の生徒の一人、サファ・ユルダヌルが来て、「先生、我々はある協会を作ります。その協会の規則を見てくださいませんか?」と言いました。進歩主義青年連合という名前の共産主義の協会でした。父も「わかった、見てみよう」と言い、規則をカバンに入れました。父に規則を渡した男はその後捕まり、尋問で「誰に規則を渡した?」と聞かれ、父の名前ももちろん言いました。そして来て父を捕まえました。10か月捕まり、最初に出廷した裁判所で無罪になりました。

―ギョルプナルル氏がアレヴィーも知っていたのを我々も知っています。ある時期とても近い関係にあったのではないでしょうか。
―1919年に、19歳の時に、祖父の死後にチョルムのアラジャに教師として行きました。そこでヒュセイン・デデ修道場に入りました。アレヴィーの修道場です。彼自身が言ったことには、「私がアレヴィーについて書いたものは、私が行きながら書いたものだ」だそうです。彼はそこであらゆるものを見て、ジェムにも加わり、彼らと共にもいました。しかし「隠れて礼拝もしていた」と笑って言っていました。

■ベクタシ修道場にさようなら

―先生の話によく登場し、いつも思い出している人たちはいましたか?
―シェイフのことは良く話していました。ヒュセイン・ファフレッディンさんです。なぜならヒュセイン・ファフレッディンさんは、西洋の言語も東洋の言語もよく知っていて、西洋と東洋の音楽を正しく知っている人でした。もちろん我々にとっても特に重要でした。つながりがあったので。

―ギョルプナルル先生がベクタシ修道場に入ったことがあります、短かったようですが。
―はい。一時期ベクタシ修道場にいました。しかしどちらかというと興味からでした。その後とんがり帽子を脱ぎ、「さようなら、その中にある」と言って出ました。理由はあなたが聞かずとも私が言いましょう。ベクタシが彼の気に入らず、印象を与えなかったからです。好きになれなかったようです。

―先生のメヴィレヴィー修道場での地位は何でしたか?
―シェイフ助手でした。シェイフ助手という地位があります。シェイフに次ぐ地位です。冠り物もあります。ターバンの色もなす紺です。シェイフ助手の地位は、メフメット・デデから父へ受け継がれたものでした。

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(翻訳者:菱山湧人)
(記事ID:32987)