新説「オルタキョイ・モスクは、バルヤン一族の作ではない」
2014年06月08日付 Yeni Safak紙


博士研究員としてビュユク・メジディエモスク(通称オルタキョイ・モスク)に関して研究していたシェファエッディン・デニズ博士は、長年にわたって考えられてきたような、モスクはニゴオス・バルヤンが造ったものであるという説を否定した。オスマン文書館の建築台帳によるとアブデュルメジド1世が造らせたモスクは先にアルティン、その後はイステファン・カルファが建設したものだという。

一部の人々はそのモスクをボスフォラス海峡の真珠と形容する。オルタキョイの岸に建てられたオルタキョイ・モスクは3年間を要した修復作業の後に、先日再び礼拝のため開かれた。レジェプ・タイイプ・エルドアン首相が再開式典をおこなったモスクはイスタンブールのボスフォラス海峡の変化する光を建物内に取り入れる大きな窓で知られる。アブデュルメジド1世によって161年前に造られたこのモスクに関して私たちが知っているもう一つのことといえば、それがバルヤン家によって建てられたということだ。1853年に時のスルタンアブデュルメジド1世が建築家ニゴオス・バルヤンにネオ・バロック様式で造らせたと言われているモスクに関して、重要な主張がシェファエッティン・デニズ博士から出た。博士研究員の時にオルタキョイ・モスクについて研究していたデニズ博士は、非常に興味深い情報にたどり着いた。デニズ博士は、オスマン文書館で6か月続けている研究の結果として、有名なオルタキョイ・モスクをバルヤン一族が造っていなかったと発表した。では、誰が建築したのだろうか?デニズ博士は、調査した93点の簡易建築台帳から、「アルティン・カルファによって造られたとされるモスクは、「カルファ(注:kalfa、職人をとりまとめ、監督する役職の名)」がこの地を離れてしまったため、完成できなかった。「カルファ」がいつ戻るのか知らされておらず、モスクが今の形のまま残されることはふさわしくないとしてフルカイ・サーデットモスクの「カルファ」であったイステファン・カルファの手により完成されたというのが適切と見られる」と述べた。これらすべての記録は文書館にある建築台帳の中に印とともに残されている。モスクの引き渡し作業は、やはり建築台帳にある情報によると、1850年の9月に実現したようだ。アルティン・カルファは3人一組で、職長のエヴァニスと書記のガラベトと働き、このまとまりで行動していた。アルティン・カルファの後、イステファン・カルファは職長ヤンコと書記のディミトリとともにモスクの建設を続行した。オルタキョイ・モスクの建設に関わった13人の職人のうち、10人は非イスラム教徒、3人はイスラム教徒だ。

■「私の目的は真実を伝えること」

デニズ博士の研究目的はオルタキョイ・モスクの建設における非イスラム教徒の役割を明らかにすること、このモスクに関する間違った情報を一時資料を利用することにより訂正ことである。もともと自身もバルヤン家に関して問題にしているのではなく、ただ真実を伝えるために研究を行ったと話す。
そしてデニズ博士の言葉はこう続く:「19世紀のイスタンブルにある宮殿、離宮、東屋、兵舎、モスク、水道施設、学校、廟、時計塔、衛兵詰所のような建造物の大部分がバルヤン家によって造られていました。パルス・トゥラジュ氏は、オルタキョイ・モスクもアブデュルメジド1世がニゴオス・バルヤンに造らせたと主張していました。しかし93点の建築台帳にも、あるいは積算台帳にも、ニゴオス・バルヤンの名前は全く見受けられません。」

■博士研究員の研究

オルタキョイ・モスクは、歴史家達によって今まで研究されてこなかった。これは研究上の空白であるとするデニズ博士は「建築史研究者達はモスクのより建築的な側面に焦点をあてており、建築台帳を用いることはありませんでした。百科事典的な情報以外に、オルタキョイ・モスクに関連するいかなる研究もなかったのです。私はオスマン文書館へ行って、最初に建設されて以降の過程に関する数百もの文書を見つけました。アンカラのワクフ図書館でも数千もの資料を見ました。建設過程は建築、構造や、技術の歴史をひもとくための重要な資料になるでしょう」と言って、研究を始めた過程について概説する。ガズィ大学の歴史教員養成学科を卒業したデニズ博士は、ミマール・スィナン芸術大学の歴史学科に入り、セリム3世時代の大宰相でサフランボルル・イッゼト・メフメト・パシャのワクフに関して博士論文のための研究活動を行った。「博士を終えたら博士研究員になろうと思っていました」と話すデニズ博士は、話をこう続けた:「私は本来、モスクの歴史的な過程を研究しようと望んでいました。とても重要な歴史的な会談がこのモスクで行われました。トリポリタニアから来た国の要人たちとの会談もここで行われました。アブデュルメジド1世は金曜礼拝をしにここに来ていました。」

■大金をアルティンは受け取った

オルタキョイ・モスクの建築のどの部分がどれほどのコストで建設できるのかに関して書かれた台帳の最後にはセイイド・アブデュルハリム・エフェンディの印がある。またオルタキョイ・モスクの簡易建築台帳のどこにもニゴオス・バルヤンの名前が見受けられないことと、モスクの「カルファ」として記録にアルティンとイステファン・カルファの名があることによって、モスクを建てた人物がニゴオス・バルヤンである可能性はないという。デニズ博士は、台帳から得られた結果によって主張をさらに強めた:「オルタキョイ・モスクの簡易建築台帳においてモスクの「カルファ」として最も高い報酬を受け取ったのはアルティン・カルファであり、それによりモスクを建設した人物がニゴオス・バルヤンである可能性はなくなります。これら全ての情報から、この問題に関しては以下のように述べることが出来ます。オルタキョイ・モスクを造ったのはニゴオス・バルヤンではない、と。」

■ニゴオスではなくアルティン

デニズ博士は、その研究の中でバルヤン家の系譜も示した。その理由は、この家の人々の名前が建築台帳にあるかないかがを確認するためだった。デニズ博士は「19世紀に建てられたすべての建築作品に関して文書研究を通じて真実を明らかにする必要があります。ここでの我々の目的はバルヤン家と敵対することではなくて、真実を伝えることなのです。明らかになった結果は、民族的に何かを変えたりしません。ニゴオスでなくてアルティン・カ ルファが造ったのです」と述べた。

■尖塔(ミナレット)はオセブに任された

やはり文書資料によると、モスクの細部の仕事においても非イスラム教徒が携わっていた。「海辺の埠頭が石工頭のアジュ・ミハルに任された。モスク周りのがっしりした壁は砂岩からつくられるという記録から、石工頭の、アゴプという非イスラム教徒の庇護民に任され、のちにアジュ・キルコルがアゴブと共同で請け負っていたことがわかる。モスクの壁は浴場(ハマム)長のオハンネスによりつくられた。モスクのミナレットは石工のオセブに、ミナレットの土台の部分は石工頭のアジュ・エポストルに任された。斑岩を模した漆喰をアブラハム師が、アラビア書道(カリグラフィ)の作品を装飾書家のバルボリナが、鋳物の窓枠と格子を鋳造師のタルバルがつくった。説教壇は石工のアラキルに、建具細工は建具職人のホダヴィルに任された。」

手にある五千もの資料を一つ一つ調べれば、歴史家は約2年後にはもっと異なった、より確かな情報にたどり着くだろうと考えています。ここで頭にはモスクの建築家(mimar)はバルヤンで、「カルファ」が別の人物だったのではないかという問いが浮かんでくる。デニズ博士は「もともと建築家がバルヤン家であるという主張はありません。建設した家族がバルヤン家だと言われていますが。建築家に関していくらかの推測がありますが、断言するにはまだ早いです」と答えた。

■週の休みは日曜日

石造りで建築されたモスクの建設は1849年の1月22日の月曜日に始められた。最後の建築台帳の日付は1854年の7月3日であることからモスクの建設終了年は1854年であるようだ。モスクの建設作業日は月曜日から土曜日までで、すなわち週の休日は日曜日だった。デニズ博士はこれを以下のように述べる:「労働者達の多くは非イスラム教徒であったため、オスマン人の休日は金曜日でしたが、モスクで働いている人々の利便性のために日曜日を休日にしたのでしょう。もちろんこれは一歴史家としての私の出した結論ですので、絶対確かな情報であるとは言えません。」

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(翻訳者:伊藤梓子)
(記事ID:34233)