Cengiz Candarコラム:アタテュルクの座を狙うのは・・・
2014年07月09日付 Radikal 紙


タイイプ・エルドアン首相が「ポストケマリズム」のトルコでアタテュルクを継ぐ「第二のアタテュルク」の役割を行うこと、又は「スルタンのような大統領」になることを望んでいるように見られている。

ベルリンで私を空港へ運んだ運転手は、イランの「西アゼルバイジャン県」の中心、オルーミーイェ出身のアゼリーだった。一時期はアンカラでも暮し、41年間ベルリンでドイツ国民として暮している。パフレヴィー時代にイランを離れた。イラン・イスラーム共和国時代に戻ったが、のちにまた離れた。 「狂信的行動は悪いことである。彼らはシャーよりひどい」と話した。

話題は望むにしろ望まないにしろ、トルコへ及んだ。私は「私たちの首相はどう?」と聞いた。「誰?」と問われる前に、すぐに答えは出た。「あなたたちのは第二番のアタトゥルクになりたいのだ。彼のように歴史に残りたいのだ…」と。

「ちょうど最近読んだいくつかの記事やトルコで一部の人びとが言っていることをみれば、アタテュルクというよりも『スルタン』になりたいかのようだ…」と答えた。

彼は笑っている。「二つとも望んでいるんだ。二番目のアタテュルク、スルタンになることもともに。こんなことがあっていいのだろうか、と言っても、あなたたちの首相はそのようだ。二つとも望むなんてね…。」

先週飛行機に乗る時に手に取ったフィナンシャルタイムズ新聞(7月3日付)にまるまる一ページの記事があった。タイイプ・エルドアン首相の大きな写真と最も大きな文字での記事の見出しが「グランドアンビション」、「大きな野望」と訳そう。彼の目的から始めて、「高貴な野望」についても。これは、今日まで国外報道で行われた最も包括的で成功したエルドアン首相の論評の一つである。

のちに、フィナンシャルタイムズは一昨日にも目玉記事を発行した。見出しは「Ambition and Turkey's Future」であった。「エルドアンの野望とトルコの未来」。FTを重要視する世界的な政策決定者たちの多くが、今日エルドアン首相の野望と彼が大統領職についた場合、トルコがどうなるのかを、この報道機関の導きで追っている。

この記事はエルドアン首相の論評から始めている。

「ここ10年にわたって、トルコの首相であるレジェプ・タイイプ・エルドアン氏は国を安定させる政治と経済のために歓迎された。元が『穏健イスラーム派』である公正発展党が2002年に政権を取ったことによって、トルコは不安定な連立政権にかわって政治には平穏が訪れた。 経済はドル・ベースで3倍に成長した。これに伴ってエルドアンは大統領が初めて国民投票で選ばれる選挙の準備をする一方で、トルコは政治的荒波の中にある。経済は弱体化し、今の世界的イメージは崩れた。」

記事は、エルドアン首相が民主政治から遠ざかったこと、「法治国家」の破壊者ともいうべき近年の彼の行動へ関する具体例を挙げたのち、以下のように続けている。

「エルドアンが大統領になる可能性について、多くの人がこの行動に関して警告を発している。特に、国外投資家は、その近隣諸国シリアとイラクへ影響するこの危機的状況で、トルコの状況が不安定になることに危惧を抱いている。

にもかかわらず、エルドアンは、野望を封じ込め、または厳しさをゆるめる姿勢を示していない。首相は長い間、国家元首の座を欲しており、これがこの国の政治システムを揺さぶる最後の手だてになると信じている。

彼の勝利が、共和国の指導を自身の権利として見ており、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが作り上げた都市エリートたちの影響を意味する「後見人時代」を、最終的に排除する機会を得ることになると提唱している。」

では、大統領選挙がアタテュルクとエルドアンの発言の間に生んだ関係とこれに関して行われた類推について…。

この類推をムラト・アクソイが「エルドアンと『二番目の建国の父』像」という見出しで書いている。記事では興味深い評価がなされている。

「これによると、エルドアン大統領は実行的な大統領として任務を行い、ある意味党所属の大統領になる。この状態では公正発展党政府は「テクノラートの政府」で、党首も「テクノラートの首相」になるだろう。これは公正発展党が政治的党からプロの会社へ変化することを意味する。」

エルドアン首相の昨日のスピーチはこの論評を裏付ける内容を含んでいた。同首相が、自分の考えにより「描こうと望む」、本人によれば「新しいトルコ」に応じた大統領になろうとすると、公正発展党は私たちの知る公正発展党ではなくなる。これには公正発展党の一部が抵抗する可能性があるのと同時に、同党が政党ではなくなって経済的利益の分配、好む好まないにせよ『不正分配単位」となってしまう。ムラト・アクソイの言によれば「プロの会社」に転じうる公正発展党は、トルコの全政治地図と政治的バランスを変えるだろう。」

ベルリン住のイラン出身のアゼルバイジャン人のタクシー運転手が言った「二番目のアタテュルク」になることを計画する、又はムラト・アクソイが名付けた『二番目の建国の父』としてアタテュルクを追いかけるエルドアン首相は、一面ではアタテュルクの継続と映る一方、実際にはアタテュルクとはかなり違い、彼の遺産を自身の為政中に完全に排除し、自らの刻印を押したトルコとイスラム世界をつくろうと目論んでいる。

FT記事へ戻って、エルドアンの「野望」に関する評価は以下の通りだ。

「首相は、トルコを議会制の代わりに一層国家元首のカリスマ性と政治的権威へ依拠したシステムにかえようと望んでいる。このような展望は、一層の権威化に警告を発する反対者たちをつき動かしている。エルドアンが大統領につく決定は有権者が行う。しかし大統領に選ばれたとしても、彼の就任がトルコの運命をよりよい方向へ変えると考えることは非常に難しい。」

FTの記事の最後の結論は、エルドアン首相が第一回投票で大差で選出されることがトルコにとって悪いことを、非常に明確に記している。

「圧倒的な勝利は、彼を、社会的組織が彼の考えによってばらばらになっている国の頭に就けることで、アタテュルクというよりもプーチンのようにすることになるだろう。このエルドアンのトルコは、首相在任時の最初の10年非常に評価された国のようにはならないであろう。」

エルドアン首相が「ポストケマリズム」のトルコでアタテュルクを継ぐ「第二のアタテュルク」の役割を行うこと、又は「スルタンのような大統領」になることを望んでいるように見られている。しだいに、エルドアン首相がトルコの大統領というよりカウディーリョになるよう努めている、と私は思っている。

カウディーリョというものが思い浮かび、正しい言い回しかどうか調べた結果、次のようなものに出くわした。

『カウディーリョ達の典型的な特徴は、権力を社会から自分の許へ奪うこと、自身を社会のリーダーとして定着させることである。カウディーリョ達は、大きな集団を指揮し、大衆のいや増す興奮と注目を自身へ許へ集める才能がある。』

この定義はエルドアン首相にぴったりあてはまる。

しかし19世紀のラテンアメリカでのカウディーリョ達の21世紀のトルコ版は、トルコにはまったく調和しない。

エルドアン首相は、選出されない、もしくは多くの人々が予想する結果が現実になり選ばれたとしても、トルコを長い期間で統治することはできない。ましてや公正発展党を以前の様には統治できない。

私たちは21世紀にいる。トルコにいる。カウディーリョはいらない。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:竹田史佳 )
( 記事ID:34640 )