Melih Aşıkコラム:「世俗主義」のありがたみ
2014年12月25日付 Milliyet 紙

女性は中絶をしないように。
女性は帝王切開によって出産をしないように。
女性は避妊しないように。
女性は高い声で笑わないように。
妊婦は外に出ないように。
女性は男性と同じ部屋にいないように。
学校で女子は男子と同じ場で学ばないように。
女性は夫の許可なく働かないように。
権力における物の考え方(メンタリティー)と女性は、大いに関わりがある・・・「(神の)意思」なのである、これは・・・。女性は家から出ないように。男性の言うことを聞くように。権利を主張しないように。
女性はこのように無能な存在として認識され、そしてこの認識が社会に広まれば、女性が権利を主張することで、男性を狂わせることになる。殺人はたいてい女性が権利を主張した時、男性に従わなかったときに起きている。
何千もの女性はたいていこのためにやっかいな事、殺人、暴行の標的となっている。
根底には何があるのか?根底には世俗主義からの分断、世俗的なライフスタイルからの逸脱がある。
根本的な問題は、シャリーアに沿った考えが政治および社会生活において優勢をきわめることである。
反世俗主義であると憲法裁判所によって判断された一つの政党の、その頭の中にしみ込んでいる生活スタイルを受け入れる社会・・・。こうしたかたちでプレッシャーをかけられている。こうした形で洗脳されている。女性に対するハラスメントと殺人も、意識的にかあるいは無意識にか、女性が、無条件で受け入れるよう求められる役割に関係している。
私たちは政教分離の価値を理解しなかった。少なくともこの先は理解していかなければならない。

「ザ・カット」

ファーティフ・アクン監督の映画「ザ・カット」には多くのコマーシャルビデオがつくられた。多くの人が賞賛した。しかし、全員が同じ評価ではなかった。弁護士のヒュセイン・オズベク氏は以下の文章を送ったという。
「タシュナクの銃弾がスクリーンから発射されたもの、と言いうるようなこの映画の、まずは、タイミングについて考えられなければならない。「ザ・カット」は、アルメニア人ディアスポラとアルメニア共和国が準備をした2015年キャンペーン(訳注:いわゆる「アルメニア人ジェノサイド」100周年)に対して、一人のトルコ人監督により銀幕の世界から提示される100周年支援として理解すべきである。映画は、国内でアルメニア人ディアスポラのテーゼが受け入れられるような認識が形成されるための、また国外で映画人としてのキャリアの頂点に上り詰めるための、ある計算の産物であると理解されている。アクン監督の目標は映画界のオルハン・パムクになることである。」
「ザ・カット」は多くのプロモーションとコマーシャルがなされたにもかかわらず、最初の週に9千人、2週目に6千人の観客を集めたのみであるという…興行収入は15番目である…今現在、公開している「ジャッカルたちとダンス」という題名のトルコ映画は、最初の週で62万9千人、「クリミア人」が4万8千人、「だけどミュゼイェン…この熱い情熱」は3万5千人の観客を集めた。観客は「ザ・カット」にそっぽをむいた…
ファティヒ・アクン監督は、この映画にアルメニア人ロビイストからの援助はなかったと語った…
これは疑わしい。年若い人間が、手にした名声を危険にさらすには、なにか強い理由があるはずである。ファーティフ・アクン監督がどの悪魔に従ったのかは、我々は知りえない。実際、我々は(それまでは)彼をとても気に入っていたのだ。

■ギュル

アブドゥッラー・ギュル氏の大統領職は8月28日に終わりを迎えた。しかしギュル氏は100人を超える職員と一緒に大統領の夏の別荘、フベルに居続けている。そのコストは国民に払ってもらっている。フベルに住み続けることはタイイプ・エルドアンが許可することで、今後も続くことは明らかである。
これはどうしたことか、と話題になると、ある友人が以下のように解釈した。
昔は、玉座から降りたスルタンは宮殿に居住させられた。例えば、ムラト5世はチュラアン宮殿で。アブデゥルアジズはフェティエ宮殿で。アブデゥルハミトはベイレルベイで強制的に居住させられた。このようにして玉座から落ちた苦しみは軽減され、コントロール下に置かれ、玉座に新たな敵が生まれるのを防止した…
状況は似ているだろうか…どう考えるかはあなた次第である…

ディヤルバクル対ガラタサライの試合で独立行進曲が口笛でなじられた。
独立行進曲が気にいらないならトルコカップへなぜ参加するのですか?
ギュルハン・エルマス

最近はやっている「上品な態度」とはなんなのですか?
盗んで捕まった時に、平静を保つこと…
アキフ・キョクチェ

■ナンセンス

われわれが時を無駄にして暮らしている共和国における昨今の問題
「泥棒、不正、どちらがより重い罪か」
2つとも重い罪である。しかし私が思うに不正のほうがより重い罪である…
泥棒はちょっとしたものを盗む。数人かの物を持っていく。
不正を行うものは、投資を行っているようなふりをして、公開入札をしているようなふりをして、宝を奪う。すべての国民の金を盗む…どちらがより重い罪か…

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( 翻訳者:竹田史佳 )
( 記事ID:36328 )