Zülfü Livaneliコラム:アナトリアのアレヴィーたち(1)
2015年07月03日付 Cumhuriyet 紙


私は幼少のころからずっと、まずは直観でその後理性、知識、論理でアレヴィー派の考え方をとても身近に感じてきた。なぜなら、数ある「~イズム」の中でも、私が最も近く感じるのは「ヒューマニズム」であり、アレヴィーの信仰の中心を占めているのはまさにこの「ヒューマニズム」だからだ。

「ひとりの文化・芸術人としての私の夢は、あらゆる価値・評価の中心に人間が据えられているような世界の創造です。」

お礼の言葉の後、私はスピーチをこのような形で始めた。

 そこはアメリカ、プリンストン大学。ステンドグラスにはアルバート・アインシュタインの「E = mc²」の公式が枠に飾られていた。この天才科学者が授業をしていたホールに立つことは、わくわくするような経験のまさにただ中にいるのを思い出させてくれるのだ。
 
 ホールで私は各国から来た教授、学生たちに対し、ハジュ・ベクタシュ・ヴェリ、マニ教、マズダク教、ボゴミール派のこと、アレヴィー派の神の認識について説明していた。実際アナトリアにある興味深いアレヴィー派の信仰について説明することは、私にとってもはや使命のようなものだった。(無用な誤解を防ぐために付け加えるが、私が言及したのはアナトリア及びルメリ(オスマン朝のヨーロッパ側領土)のアレヴィーについてである。シリアやその他の国々に存在するようなアラウィー/ヌサイリーといった集団とベクタシー教団との関係はまた別の研究テーマだ。)

ハーバード、イリノイ、ミシガン、ペンシルバニア、シュトゥットガルトといった有名大学で、ユネスコや欧州評議会の議場で、ヴェルサイユで行われた会議で、私はこの分野に関する自分の研究を発表してきた。なぜなら「アナトリア・イスラーム」の知的な容貌を、世界はもっとよく知る必要があるからだ。

■私はアレヴィー派ではないが……

確かに私はアレヴィー派ではない。スンナ派として生まれ、とても信仰熱心な家庭の中でイスラームの最も知的な面を見ながら育った。父は検事で、私をコーラン教室に通わせていた。私はどこへ行くにも、首にかけたお守りに書かれたアラビア語の聖句を暗記していた。また英語で授業をするアンカラのマアーリフ高校に通っていた時も、裁判官を退職したハッジである祖父から濃密な信仰の話を聞いていた。私の家族にとってイスラームとは、良き人間であること、清潔で あること、美しき道徳、ひとに悪しきを考えぬこと、アッラーを畏れること、預言者への愛を意味しており、もしかしたら幼少からずっと、まずは直観でその後理性、知識、論理でアレヴィー派の考え方をとても身近に感じることができたのはそれが理由かもしれない。というのも、数ある「~イズム」の中でも、私が最も共感するのはヒューマニズムだ。それがアレヴィーの信仰の中心概念であり、そんな彼らが何世紀も抑圧され中傷されてきたという事実は、私の中でアレヴィーたちに対し深い愛情を抱き、共感することにつながったのである。

■なぜ彼らは虐殺されたのか

 彼らの歴史について国内・外国の文献を読むにつれ、私の興味は募るばかりだった。オスマン朝の領土拡大で名を轟かせたイェニチェリ軍団の聖者はハジュ・ ベクタシュ[注1]ではなかったか?アナトリアやルメリの征服の際にこの信仰に結びついていた「植民者のデルヴィーシュ」たちが大きな役割を演じなかったか。オスマン朝の創建に際しこの信仰が重要な役割を演じなかったか。それならばなぜ、セリム1世の治世以降、 帝国はアラブ化し、アナトリアのアレヴィーたちは虐殺されたのだろう?

この疑問への答えは単純明快に思われる。イランの脅威である。シーア派イラン(注:サファヴィー朝)のシャーがアナトリアにいたアレヴィーたちを利用し、オスマン朝を脅かしていたというのだ。

しかしここにも、もう一つ奇妙な問題がある。

■二つの詩が教えること

セリム1世と戦ったイラン(注:サファヴィー朝)のシャー・イスマーイールは、「ハタイー」の雅号を名乗り、今日の民謡でもおなじみの詩を書いている。

永遠の春が来なければ
赤い薔薇も咲かなかったろう
赤い薔薇が咲かずとあれば
貧しき夜鳴鶯も囀らずという

詩は次のように締めくくっている。

友は友より離れねば
友の価値も知らずにいたろう

シャー・イスマーイールが今日のトルコ語に近いきれいなアナトリア・トルコ語を使っているのに対し、オスマン朝のスルタン・セリム1世が詠んだ詩はこうだ。

天は、わが瞳に何の魔法をかけたか、知る由もなし
天は、涙で潤ませ、瞳を充血させた
獅子、我が怒りの鉤爪におののく中
天は、我を瞳美しきものの虜とした

(ハリル・イナルジュック先生とお話しした際、セリム1世のものとされているこの詩がナームク・ケマル[注2]による『オスマン朝史』に登場していること から、この詩はセリム1世ではなくケマルのものである可能性があると仰っていた。これは確かにその通りだと思う。なぜならセリム1世は晩年、「獅子の鉤爪」という恐ろしい皮膚病にかかっており、それをハマムで潰させてから遠征に出立、チョルル周辺で側近のハサン・ジャンがヤースィーン章(コーランの第 36章)を枕元で読む中に亡くなっている。「怒りの爪の前にライオンたちが恐れ慄く」という句が皮膚病「獅子の鉤爪」を指しているのだとすれば、セリム1 世が病床でこの詩を詠んだというのは考えにくい。実際、ハサン・ジャンものちにこの詩について触れていない。しかしこの詩を誰が書いたにせよ、セリム1世もほかのスルタンたちのようにペルシア語を多用した詩を作っていたことは事実であるし、私がここで言及したことの意味合いが変わるわけではない。)

■シャーの詩

これらの詩は2つとも非常に美しい。だがしかし、トルコ語に近い詩はどちらであろう。イランのシャー・イスマーイールの詩の方だと思われないだろうか。

 つまり、(そもそもトルコ人である)イランのシャーはトルコ語の、オスマン朝のスルタンはペルシア語の単語を用いて詩を書いていたということだ。国民国家の時代になってのち成人した我々が、歴史を現在の基準で解釈するのは不可能であることを示してはいないか。(ドイツの偉大な歴史家ハンス・ヨルグ・ガダマーは解釈学の見地から、歴史を読むときは現在ではなく、当時の価値基準によってテキストを解釈しながら読み進めていく必要性を説いている。)

 カール・マルクスは、「征服国は、征服された国々の文化的影響下に置かれる」と言う。
 
 コンスタンティニイェ(注:イスタンブル)についても、エジプト征服後のオスマン朝についても、この言葉である程度説明できると思う。

■「失言ではなく、中傷だ」

 アラビア半島が征服されると、帝国内ではアラブ的影響が多くみられるようになった。もはや用無しになったアレヴィー派の人びとは、虐殺に遭い、山岳地帯に逃走することを余儀なくされた。彼らについて数多の中傷が浴びせられ、「異端的、不道徳」な集団として認知されるように仕向けられた。

 こういうことは今でも続いている。聞くたびに身の毛のよだつ、スキャンダラスな暴言。これらはただの失言として片づけられてしまいがちだが、実は何世紀も前から脳内にこびりついている中傷の垢なのだ。

 ムスリムの中には「クズルバシュ」という語を「近親相姦」という意味で使っている者もいる。しかしそういう用法は重大な誤りで、宗教上の罪だ。「クズルバシュ(赤帽)」とは15世紀にシェイフ・ハイダル(注:イスマーイール1世の父)が自らに従う者たちに与えたという、12のひだがある帽子のことを指し、12のひだは、12イマームを象徴しているからだ。この帽子をかぶる者たちのことを、オスマン側は「アリー派のテュルクメンたち」と呼んだという。

■アレヴィーたちにアラベスクは広まらなかった

 プリンストンで行われた会議での配布資料の導入として書いた上の文に対して、少しばかりの追記を行うことにお許しを願いたい。

 近年、いろいろな場でアレヴィー派に関する議論を耳にする。しかしここでもまだ、噂レベルの知識で議論がなされているのは、はっきり言って残念だ。まだ良心的な方でも「アレヴィーたちは、アリーを、ムハンマドよりも上に見ている」などという間違った主張がまかり通ってしまうのだ。何世紀もアレヴィーたちが「アッラーよ、ムハンマドよ、アリーよ、助け給え」と唱え続けてきたという事実ですら、この誤解を解くのには不十分なのである。

 ここで一つ、アレヴィー派の偉大な吟遊詩人テスリム・アブダルの詩を見てみよう。

あなたは神の預言者なり、疑いなきお方
あなたに背くものは信仰・信心なきものなり
テスリム・アブダル、あなた無しに世をいかんせん
麗しき御名、美しきお方、ムハンマドよ

(以前、宗教的なラジオ番組でこの詩がユヌス・エムレのものとされていたが、それは間違いだ)

 アレヴィー派の文化的伝統は非常に強固なもので、アレヴィー社会にはアラベスク・ブームも流れ込んでこなかったほどだ。アレヴィー文化の中でも重要な要素の 一つであるバーラマをかき鳴らしながら、自らの詩や賛歌を唱えている。「自分が傷ついても、他者を傷つけるな」というハジュ・ベクタシュ・ ヴェリの至言にしたがっているのだ。

■羊に歌う唄

 「生命」を大切にし、人間を人間として大事にするアレヴィーたち。彼らは人間だけではなく、全ての命あるものに対して敬意を払う人たちだ。そのことを、チョルムで参加したジェム儀礼の中に見聞する機会を得た。

 慣例に従って羊が屠られ、全員にふるまわれるが、その羊はヘナやリボンできれいに飾られ、デデ(注:アレヴィーの宗教指導者)の前へ丁重に連れてこられた。一人が羊の左前足を曲げながら掴み、デデは羊に話しかけ、サズを弾きながら謳いかけた。「すまぬ。君を傷つけたくはない。しかし君の命はここにいる全員を生かしてくれる。感謝する」という感じの内容だったと思う。(完璧に覚えているわけではないが、意味する所を伝える)

 羊に直接歌いかけ、やわらかく甘美な音色を捧げると、羊の方も嫌がらず静かになり耳を傾けているように思われた。アレヴィーのこうした姿勢が、私のような動物好きをどれほど感動させたかはおわかりだろう。特に、犠牲祭で動物たちに多大な苦痛を与えながら殺すことを正しい作法とみなす者たちと比べると。





注1:13世紀の聖者で、ベクタシー教団の祖とされている。彼と関係が深かった修道僧たちがガーズィーとなり、バルカン半島の征服において大きな役割を果たした。

注2:1840-88 新オスマン人を代表する啓蒙家。西欧的思想に基づき、専制政治に批判的姿勢を取りながらロンドンなどで言論活動を行う。ロマン主義の影響下で小説や戯曲も多く残す。

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( 翻訳者:今城尚彦 )
( 記事ID:38053 )