教育の機会、不法滞在のアフガン人生徒にも提供へ—今年メフル月(9/23〜)より(1)
2015年09月21日付 Jam-e Jam 紙


【ジャーメ・ジャム紙10面:アーヴィード・ターレビヤーン】35年前、イラン革命の少し後に、恐怖が何百万もの人たちを東のアフガニスタンから西のイランへと向かわせた。ソ連の赤軍は8年間アフガニスタンで戦争をしたが、それがアフガン人にもたらしたのは100万人近くの死者であり、イランにとっては大挙して押し寄せた避難民たちをもたらした。「熊のわな」(長期にわたって続けられたアフガニスタン=ソ連戦争に与えられた呼称)で「屠殺」される恐怖が隣国の「アーモンド・アイ」たちを我が国との国境地帯へと向かわせた。そのとき偶然にも、国境は彼らに対して開かれていたのであった。

 イラクとの戦争に巻き込まれていたイランは、こうして自国の戦争という重荷と同時に、東隣で起きた戦争の重荷をも背負い込むこととなった。現在アフガニスタン移民・帰還民問題省が出している報告書によれば、この期間にイランの肩にのしかかったのは、520万人以上の難民たちという重荷であり、彼らは同じ恐怖を共有して、イランへと向かったのであった。

 しかしソ連との戦争が終わり、アフガニスタンがモジャーヘディーンの手に落ちて、イスラーム国家をもつようになると、徐々に210万人の難民が故国へと帰還した。この出来事は71年〔西暦1992/93年〕以降のことだった。

 しかし〔‥‥〕アフガニスタンは再び戦火に見舞われた。今回の戦争は75年〔西暦1996/97年〕以降に起きたターリバーン体制とのものだった。内戦が起こると、アフガン人たちの目は再び、西の隣国へと向けられた。そう、職の機会のある安全な国イランに。

 アフガニスタン移民・帰還民問題省の報告によれば、ターリバーンによって410万人がイランに逃れることを余儀なくされた。〔‥‥〕同報告書によれば、これらの難民たちは滞在許可証を持たない、我々イラン人が不法滞在者と呼んでいる、あのアフガン人たちのことである。彼らは、アフガニスタン移民省が言うところの、ソ連との戦争期間中に合法的な難民となることができたあの93万人の難民とは正反対の存在なのである。

つづく


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( 翻訳者:PM )
( 記事ID:38757 )