「笞と絶叫」の博物館へようこそ—パフラヴィー体制時代に囚われの身となった政治犯たち(1)
2017年02月09日付 Iran 紙


【イラン紙11面:タラーネ・バニーヤアグーブ】〔‥‥〕エブラト博物館〔※〕はここ最近、多くの訪問者を受け入れている。しかし、ここでは革命前の政治囚らの姿も多く見かけることができる。

※訳注:「エブラト博物館」は革命前の拷問の実態を展示する施設。「エブラト」は直訳すれば「教訓」「戒め」「啓発」の意。

 「ファジル10日間」〔※〕の期間中、通常の数倍の人がこの博物館を訪問していると言われている。

※訳注:ホメイニーが亡命中のフランスから帰国した1979年2月1日から、革命勢力が最終的な勝利を収めた2月11日の前日までの10日間を「ファジル10日間」といい、言わば西暦2月11日(イラン暦バフマン月22日。なお、今年は閏年の関係で革命記念日は西暦2月10日)に開かれる革命記念日の前夜祭にあたる。「ファジル」は「夜明け」の意で、コーラン89章の名称に由来。

 博物館はイラン暦1316年〔※西暦1937/8年〕に警察の牢獄として建てられ、一時期は女性用の監獄としても使用されていた。だが、なによりもこの博物館で注目されるのは、50年代〔※西暦1971年~〕初頭以降、ここで起きたさまざまな出来事である。モハンマド・レザー・パフラヴィーの命で、イギリスの公安組織をモデルにして、SAVAK〔※国家安全情報局、パフラヴィー体制の秘密警察の名称〕、都市警察、ジャンダルメリー〔※地方警察〕、および国軍の経験をもとに、革命の闘士たちを弾圧する目的で自らの活動を開始させた、まさにあの「反破壊行為合同委員会」のことだ。周知の通り、宗教的・文化的信条や活動だけを理由に、かつて1万人以上の政治囚らを収監していた場所に足を踏み入れることは、気が進まないものだ。

 最近この博物館のガイドを務めるようになった元政治囚の言葉を引くならば、「多くの人がイマーム〔・ホメイニー〕の書いた冊子や論文をもっていたために、破壊分子として、国家の安全に反する行為を働いた容疑で、ここで極めて過酷な拷問に遭った」のである。

つづく


Tweet
シェア


この記事のつづきはこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:TK )
( 記事ID:42235 )