「笞と絶叫」の博物館へようこそ—パフラヴィー体制時代に囚われの身となった政治犯たち(2)
2017年02月09日付 Iran紙


 「フェルドウスィー通り南—イマーム・ホメイニー広場近く」に位置するエブラト博物館は円柱状の中庭を有し、〔‥‥〕6区画86房を擁する4階建ての建物だ。狭い廊下から入るとすぐに、ここに囚われの身となっていた数百人もの政治囚らの名前が目に入ってくる。〔‥‥〕

 囚人だった一人アブドッラー・アズィーズィヤーンはここに2回、計8ヶ月間収監された経験をもつ。一歩踏みしめるごとに、彼にとってここがいかに苦楽の記憶の場となっているかが分かるだろう。

ここで私たちは抵抗というものを目の当たりにしたのです。私たちはここから殉教者を輩出したのです、ここから‥‥。私はテヘラン市の南部、たいていはナーズィーアーバード〔※〕でしたが、そこで宗教的な集まりを開いたという理由で逮捕され、投獄されました。私もここに囚われていたその他多くの囚人たちと同様、文化的な活動をしていたというだけの理由で逮捕され、拷問を受けました。

武装闘争をしていた囚人は、そんなにいませんでした。イマーム〔・ホメイニー〕閣下は武装闘争には賛同していませんでしたから。イマームは仰っていました、「もし抑圧者を一人殺しても、もっとひどい抑圧者がその者に取って代わるだけだ。あなた方は人々の意識を目覚めさせるべきだ。そうすれば、あとで人々自身が行動を起こし、シャーを国から追放してくれるだろう」とね。そして、まさにそれが起きたのです。

※訳注:テヘラン南部の地区の名前。第二次世界大戦勃発前後に多くのドイツ人が暮らしていたことから、ナーズィーアーバード、すなわち「ナチスの街」と名付けられた。その後、この地区からは革命運動に参加する若者たちが多く輩出したことで有名になった。

 いまではすっかり白髪男性となってしまったアズィーズィヤーンは、その他多くの政治囚らと同じく、ここでは何度も何度も拷問にあったという。

独房〔※ママ〕では、両足に負った傷のせいで、〔細菌が〕全身に感染してしまいました。三日三晩、傷〔の痛み〕と寒さに呻き声を上げていました。寝ることもできませんでした。最終的に、同じ房にいた2人の仲間〔※ママ〕—彼らは2人とも大学生でした—が私の状態に気づき、「どうしたんだい?言ってごらんよ、少しでも助けになるかもしれないから」と声をかけてくれました。もちろん、私たちは皆、こうした状況を何とかやり過ごさざるを得なかったのです。

つづく


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(翻訳者:UCH)
(記事ID:42236)