「笞と絶叫」の博物館へようこそ―パフラヴィー体制時代に囚われの身となった政治犯たち(5)
2017年02月09日付 Iran紙


 建物の一階にある独房は、そこに収監されていた有名人物の名前で呼ばれている。どこも薄暗く、恐怖に満ちた場所だ。刑務官たちが期待した通り、ということだろう。

 私はそこで、アリー・シャリーフニヤーに出会った。彼は監房をじっと見つめていた。その目は、悲しみに満ちていた。彼もまた、この建物の記憶の一部なのだということを再度理解することは、難しいことではなかった。



逮捕された時、私は大学生でした。私をここに連れてきたのはコミテ〔=反破壊行為合同委員会〕ではなく、エヴィーン〔刑務所〕にここの多くの囚人たちとともに収監されました。私とその仲間たちはアーザーディー・スタジアムで一緒に捕まりました。当時、モダッレス・ハイウェイはシャーハンシャーヒー・ハイウェイと呼ばれていましたが、私は道中、友人のエナーヤトにコミテに捕まらなくてよかった、エヴィーンに連れて行かれるので助かった、と言ったのを覚えています。エナーヤトはその後、殉教しました。〔‥‥〕

エヴィーンもまた、こと拷問に関してはここに劣るものではありませんでしたが、ここは〔エヴィーンよりも〕悪名高かい場所でした。アフマド・クーチーケという人物がいたのですが、彼は拷問を受けるたびに、ボロボロになって戻ってきました。よく言ったものです、お前、拷問されるたびに背が縮むな!って。
 
 彼は話す際、何度も喉をつまらせた。最近では、すっかり引退して文化人になっている。

この子たちは私たちみんなの記憶の中に居続けています。信じられないかもしれませんが、何日も彼らのことを思い出すのです。今の若い人たちも、この子たちの理想を追いかける姿勢を共有してくれたら、と思います。彼らは本当に清く、自己犠牲の精神の持ち主でした。

 彼は緑と白の、薄暗く寒々とした壁と廊下の間を通り抜け、博物館の中庭の一角、囚人たちの写真が飾ってあるところの横に立った。彼らの名前の横に、赤いチューリップが添えられているものが時折見つかる。すでに私たちの元から去っていった人たちだ。しかし彼らの自己犠牲と抵抗の記憶は、我らと共にあり続けるだろう。

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(翻訳者:RNTR)
(記事ID:42239)