正教会紛争の行方
2018年10月21日付 Cumhuriyet紙


フェネル・ギリシャ正教総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)がウクライナの教会を承認した影響は、トルコを中心とする非常に広い範囲に渡った。

約3億人の正教徒が、フェネル・ギリシャ総主教庁とロシア正教会の間での議論に注目している。10月11日、ヴァルソロメオス・フェネル・ギリシャ総主教は、キエフ総主教庁のフィラレート総主教とウクライナ独立正教会のマカリー府主教の破門を撤回し、両総主教を承認した。この決定は、330年を経てウクライナ正教の中心地が再びイスタンブルとなる第1歩だ。この進展の重要性を知るためには、イスタンブル征服まで遡る歴史の旅をする必要がある。

■オスマン帝国と総主教庁

オスマン帝国がイスタンブルを征服した後、西洋で最も多く議論された問題は、フェネル・ギリシャ総主教庁であった。この理由は、総主教庁が正教のヒエラルキーの中で全地総主教庁としての(平等の中で一番目の)地位を持っていることだった。ローマ帝国においてキリスト教が広がり始めるとともに、フェネル・ギリシャ総主教庁は他の教会の中で重要性を増し、6世紀には全地総主教庁としての地位を獲得した。11世紀に東西の教会が分裂したこと、ローマ教会(バチカン)がカトリックの理解に合意しなかったこと、そして西欧のラテン人のイスタンブル侵略後に起こった分裂によって、フェネル・ギリシャ総主教庁は東欧のキリスト教徒のための宗教的中心地となった。しかし、トルコ人が西に向かった結果、正教の4つの歴史ある教会のうちのどれも、キリスト教徒の支配する土地には残らなかった。
18世紀末にバルカン半島で始まった民族主義の波、特にギリシャ正教徒の独立の要求は、オスマン帝国と総主教庁との関係を冷やす原因となることとなった。結果的に、ギリシャが独立を獲得した1821年のギリシャ革命の後、総主教グレゴリオス5世が殺害されることとなった。

■モスクワ・イスタンブルの分裂

北方では、キエフが1325年にモンゴルに征服された後、教会の中心地がモスクワに移って設立されたロシア正教会――モスクワ総主教庁は、正教のヒエラルキーにおいてはフェネル・ギリシャ総主教庁の下に位置していた。
しかし、1439年にフィレンツェ公会議でビザンツ聖職者とロシア正教会が署名した、教皇と、バチカンを承認する声明をロシアのヴァシーリー2世が認めなかったことは、正教の世界における深い分裂の元となった。
ビザンツ帝国がオスマン帝国のイスタンブル征服の脅威に対し西欧のキリスト教徒の支持を得るため行った試みは、1448年に聖イオナ府主教が、フェネル・ギリシャ総主教庁の承認なしにロシア正教会の代表となることにつながった。

正教徒の人口が集中しているバルカン半島で独立を宣言した人々は、民族主義のアプローチを、宗教においても示していた。独立正教会として設立された教会はフェネル・ギリシャ総主教庁のリーダーシップを認めなかった。オスマン帝国が歴史上のものとなり共和国が宣言された一方、フェネル・ギリシャ総主教庁は、旧大陸においてはトルコ領内に住むマイノリティであるギリシャ正教徒の権利についてのみ直接発言権を持つこととなった。
一方、全地総主教庁の地位の最も重要な後継者として認められたギリシャの国民教会も、オスマン帝国のイスタンブル征服とアヤソフィアのモスク化に対抗してイスタンブルを放棄しなかった総主教庁を、オスマン政府の傀儡であるとして弾劾していた。

■共和国は承認せず

コンスタンティノープル全地総主教庁と呼ばれるフェネル・ギリシャ総主教庁の全地総主教庁としての地位はトルコ共和国政府には承認されず、総主教庁がトルコにおけるギリシャ正教徒の精神的指導者であることのみが認められることとなった。住民交換の後、総主教庁が発言権を持つ対象は、12の島とイスタンブルの正教徒とギリシャにおける小さなマイノリティに限られた。
第二次世界大戦の後形成された二極化した世界政治において、正教内での議論は、社会主義政府との関係を軸として進展した。モスクワのロシア正教会は、宗教に対し距離を取るソビエト・ロシア政府との関係のバランスを取るという名目で、「傀儡」との批判に対抗した。
戦後、スターリンはナチスが開いた教会といくつかの大教会が再び礼拝のために使用されることを許可し、正教徒をコントロール下に置き、教会が政治局の目的に奉仕する組織として存続することを許可した。この状況は、別の教会の強化につながった。ロシア国外のロシア正教の教会である。

ツァー体制の崩壊後ロシアから逃れた白軍支持のロシア人宗教関係者たちによって作られたこの教会は、離散の中で生きる社会主義に対抗するロシア人の糾合を目的としていた。
共産主義の崩壊後、2000年に行われた会合で、ロシア国外のロシア正教会は、最後の皇帝とその家族ロマノフ家とボリシェヴィキ革命の際に殺害された宗教関係者のためにロシア正教会が弔意を表すことを求め、この要望が受け入れられると、モスクワ総主教庁に従うことを受け入れた。

ソ連崩壊は、ウクライナ正教会にも変化をもたらした。ウクライナの建国直後に起こったウクライナ正教会・キエフ総主教庁は、1921年に作られたウクライナ独立正教会と同様、フェネル・ギリシャ総主教庁に承認されなかった。
ウクライナにあった別の大きな教会であるウクライナ正教会・モスクワ総主教庁は、鉄のカーテンの崩壊時の1990年に作られ、ロシア正教会の非公式な庇護を受けていた。

■東欧の教会におけるNATO

ウクライナで2014年にヴィクトル・ヤヌコーヴィチ首相がオレンジ革命によって職を追われたあと始まった衝突の結果、ウクライナ北部の都市ドネツィクのロシア支持派の分離派が始めた武力闘争とロシアのクリミア占領、黒海沿岸の国で未だ続く内戦状態が発生した。これが正教の世界に影響を与えないはずはなかった。もともと、黒海の水を加熱させたのは、NATOがロシア国境における陸海の戦力を増強させたためだった。EU支持派でロシアに反対する大衆と、ロシア編入を望む北部の分離派の間で2つに分裂したウクライナで正教の人々も、急速に政治的進展の影響下に置かれ始めた。

■分裂

10月12日、クレムリンのスポークスマンは会見を行い、プーチン大統領が軍とともにウクライナにおけるロシア正教会の状況について会見を行うことを明らかにした。これは外交的なミスであり、ロシアの意図を明確にしたという観点からも重要だった。言及されたのはウクライナ正教会――モスクワ総主教庁だったが、この胸背はウクライナ正教がロシア正教会に結びついたのよりずっと後に設立された。教会がどれほどモスクワに近くても、会見では独立したものであることが強調され、「ウクライナにはいかなる形でもロシアの教会はない」と言っていた。実際の審判の日は3日後に起こった。

ミンスクに集められたロシア正教会の聖会議で、フェネル・ギリシャ総主教庁とのあらゆるつながりを断つことが決定された。翌日の問題は、トルコ正教会のものだった。

教会は、バルトロメオス総主教と総主教庁の会議のメンバーについて、職務に際して宗教的奉仕を乱用したとして弾劾していた。このプロセスの、長期的に「歴史的」イスタンブルでキリスト教を再興させる努力は、アヤソフィアが礼拝に開放されたこととユーラシア、NATOの衝突を軸として起こった政治的・軍事的進展によってさらに重要性を増し、この重要性の中心にイスタンブルとトルコ共和国が位置している。このため、トルコのロシアとの接近と、EUおよびNATOとの間に距離を置こうとする努力を、両国の安全と主権の懸念を含む共通の利益の中で評価することが必要である。

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(翻訳者:永山明子)
(記事ID:45594)