アタテュルクはスペイン風邪にかかっていた?

2009年05月08日付 Milliyet 紙
世界保健機構が「A(H1N1)」と名付けた豚インフルエンザのパンデミック(世界規模の大流行)への拡大が恐れられている中、偉大なる指導者アタテュルクが、前世紀に何百万もの人の死因となったスペイン風邪に罹っていたという主張が発表された。メティン・オズアタ教授が執筆した『アタテュルクと医師』という本によると、(開放戦争で)サムスンに向かう直前の時期、スペイン風邪に罹ったムスタファ・ケマルは、病気をベシクタシュ(イスタンブル)のアカレトレルにある自宅で克服した。

『ワクチンと生命』という雑誌の「パンデミック」をテーマとする記事によると、1918年に発生したスペイン風邪の猛威で、アメリカだけでも2000万人がこの病気にかかり、彼らのうち、凡そ100万人が命を落としたという。

記事による、すべてが1918年3月のある朝、カンザスのヒューストン・キャンプで始まった、という。世界を揺るがした展開は次のように説明されている。
「コックのアルバート・ミシェルは、その日、朝食を用意出来ないくらい疲れを感じていた。熱、中程度の喉と筋肉の痛みなどのインフルエンザに似た症候で、保健センターに行った。横になった休むようにと、勧められた。昼になる頃には、すでに107人の兵士が病気にかかっていた。2日のうちに522人が病気になり、うち一部は主に深刻な肺炎から危篤状態に陥った。名簿によると48人が肺炎 のため死亡したと記録されている。他の連隊も、同じ伝染病の影響下に入った。病気の原因となったウイルスは、ヨーロッパに広がり、より多くの人々に伝染した。そして病気は致命的の展開を続けた。第一次世界大戦のため、青年らが船や訓練キャンプに集まっていたことで病気は速く広がり、軍隊から社会へと伝染した。アルカトラズ島のような孤立した場所へも、インフルエンザは1週間で侵略した。」

病気はさらに後に大西洋を渡り、4月にフランス、その中旬には日本と中国、5月にはアフリカと南アメリカを襲ったという。記事によると、アメリカの大都市では数ヶ月のうちに何千人もの人がインフルエンザのため亡くなったとされ、10月、サンフランシスコでは、公共の場でのマスク着用を義務付ける法律が可決された。サンフランシスコ・クロニクル紙は、これを「マスクを着けて、命を守れ」という言葉で報道したという。

同記事によると、「マスクのお陰でウイルスの活動は減少し、そして患者の数は落ち着いた。一ヶ月後、サイレンでマスク着用義務が解除されたことが知らされた。病気は克服されたかのように見えていた。しかし、2週間後、風邪の患者数は再び増え始めた」という。「スペイン風邪の第2ラウンドが始まった。マスク反対者、政治家、そして人々の嫌気のために、マスク使用が放棄された。唯一の良いことは、(そういう文句をいう人は)病気が発症してから2、3週間後には、消えてしまうことだった」と記事は述べている。

■人々の集会は禁止された

スペイン風邪は人々の集会を禁止する原因となり、死者を出した家族の住む家々の戸には、白い花輪が1つずつ掛けられた。集会は禁止され、葬式には近親者のみが参列できた。その時代の目撃者は、体験したことを、「通りを歩いていたら3、4つの戸の1つには、白い花輪があった。本当に大変な時代だった」と語っている。いくつかの地域では、薬局と肉屋以外のすべての商店やサロンが19時以降は閉店とされた。人々には「集会をしないこと、大人数のグループを作らないこと」が指示された。

病気の犠牲者は、他の致死的風邪の流行とは違っていた。ほとんどが20歳から40歳の間の若い、健康な人々が命を落とした。死は、病気の始まりから何時間、また何日か後に、肺炎となって、間違いなくやってきた。肺は血液の混じった液で一杯になっていた。医師たちは当初、何が起きているのか分からなかった。しかし、ついに、これが動物から人間に感染したウイルスであることが発見された。全世界に恐怖を与え、2000~5000万人の死に道を開いたウイルスは、出現してから18ヵ月後に終息し、二度と見られなくなった。スペイン風邪の原因となったウイルスは、学者らによって、のちに、再び活性化させられ、それが、まず鳥から豚へ、それから後に豚から人間へと感染したウイルスであることが明らかになった。これは、すべてのウイルスの中でも、最も致死性の高いものだった。鳥を宿主とするが、稀に豚に感染していた。病気になった豚の免疫システムがウイルスを破壊するための活動を始め、ウイルスも生き残るために突然変異を起こして、その形を変えざるを得なくなっていた。1957年のアジア風邪と、1968年の香港風邪も、こうした形で突然変異した豚ウイルスが原因で起こった。

スペイン風邪の後、インフルエンザ・ウイルスについての科学的調査が進んだ。これに関する現代的知識は、ロンドンで1933年にA型インフルエンザ・ウイルスが初めて人から分離され入手されたことで、始まった。1940年にはB型インフルエンザ、1947年にはC型インフルエンザが確認された。病気に関するより詳細な知識は、1941年のインフルエンザ・ウイルスのヘマグルチニン特性の発見と、ヘマグルチニン抑制をベースに行われた試験で得られ始めた。不活性ワクチンが防衛効果を持つことは、1950年代に証明された。

■「アタテュルクはスペイン風邪を克服した」という主張

『ワクチンと生命』誌の記事では、世界に猛威を振るったスペイン風邪が、国の将来に重要な役割を果たした多くの人物の生命にも、大きく影響したと主張されている。

記事では、ムスタファ・ケマルが、その青年将校時代から亡くなるまで交友を続け、戦線でともに任務に就き、任務を与え、そして様々の理由で出会った医師らをテーマにした『アタテュルクと医師』という本に依拠して、「偉大なる指導者がこの致死性の風邪を克服した」と述べている。この本では、ジェマル・クタイの「会話」という題の作品に依拠して、ムスタファ・ケマルがサムスンに上陸する前に、スペイン風邪に罹ったという情報が書かれている。その作品によると、偉大な救国者(アタテュルク)の副官、ジェヴァト・アッバス・ギュレルはこの病気を、次のように説明したという。
「我々はサムスンへの上陸準備をしていた。アタテュルクはしばらく調子が良くなかった。非常に深刻で、当時とても恐れられたスペイン風邪を、彼はベシクタシュのアカレトレルにある家で克服した。」

共和国の第1世代の画家、フィクレト・ムアッラも、ガラタサライ高校で教育を受けていた頃、母親を占領下のイスタンブルで「第2の災害」と見られたスペイン風邪でなくしたという。「この病気を母親にうつした」ために、画家が思春期の頃、絶えず罪の意識を抱いていたことが記されている。有名な詩人、作家のズィヤ・オスマンも、8歳のとき、彼自身の言葉で言うなら「当時、大流行し、有名だったスペイン風邪に罹った母親を失った」という。

■ ナーズム・ヒクメトとスペイン風邪

著名な詩人、ナーズム・ヒクメトも、「救国戦線の詩」で、世界を揺るがしたスペイン風邪に次のように触れている。

「我々はイスタンブルの町、
我々は動員された:
カフカス、ガリチヤ、チャナッカレ、パレスチナ、
密貿易、チフス、そしてスペイン風邪
それから統一派、そしてドイツの長靴
914年から918年まで、我々は精根尽き果てた」

■ 同じウイルス型

保健省の「パンデミック・インフルエンザ国民行動計画」では、風邪感染が過去の伝染病に比較して、より大きな混乱を引き起こし、重大な死者をだすにいたる可能性があるとされている。

誰も免疫を持たない新しいインフルエンザ亜型が現れたとき、パンデミックが見られ、(パンデミックとは)世界規模で、複数の場所で同時に流行すること、そして多くの病人と死者につながるということを意味するとされている。毎年見られるインフルエンザの流行はA型とB型のウイルスによるもので、この流行の原因は、以前起こった伝染とワクチンにより、既に免疫がある状態のインフルエンザウイルスの微小の変化によるものであるという。

計画によると、A型インフルエンザだけがパンデミックにつながるものである。A型インフルエンザの表面にあるタンパク質の1つ、もしくは2つが突然重要な変化を起こしたとき、もはやこの新しいウイルスに対して誰も免疫を持たない。このウイルスは人と人の間で感染する能力を持てば、パンデミックに発展しうる。

1918年のスペイン風邪にはH1N1、1957年のアジア風邪にはH2N2,1968年の香港風邪にはH3N3ウイルスが原因となったという。


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翻訳者:林奈緒子
記事ID:16401