AKPの10年(ラディカル紙特集)―外交における成功・失望・課題

2012年11月03日付 Radikal 紙

外交政策は、この10年間で、トルコが2002年まで実施していた伝統的中立主義パラダイムの転換がはかられた。

10年間の公正発展党(AKP)の外交政策は、共和国の歴史の中で最も議論を呼ぶものである。これは正常な事である。この10年間で、トルコが2002年まで実施していた伝統的中立パラダイムの転換がはかられたのだ。このプロセスでは、変化したトルコと世界がおかれた様々な状況の影響を忘れてはならない。この10年間は、幾つかの段階で検討することが出来る。これらの段階はある程度の支離滅裂さと迷走を含んでいる一方、AKP政権らしい支離滅裂さともいえる歩みの連続ともいえるものである。しかし、はっきりしているのは、このプロセスにアフメト・ダヴトオール外相が強烈な印象を残しているということである。戦略的深み、積極的で断固とした外交政策、ゼロ・プロブレム外交、基軸転換、先を見越したテンポの良い外交政策、ネオ・オスマン主義、帝国主義的意図、地域的かつ地球規模、そしてソフトパワーなど野心的で華やかなコンセプトの数々は、この10年の成果であり、議論の的でもある。全体的な意味合いにおいて、この10年の外交政策は、明確なパラダイムに基づき行われ、積極的で、また努力の中で進められ、加えて多角的で全方位的で継続的関係の中で進められ、言葉に耳を傾ける外交であった。しかしながら、その土台が十分ではなかったがために成果を得ることは難しく、理論と現実の政策、様々な地域のダイナミズムを無視したために問題を生じさせ、また、変化するそれぞれの時期に古きを捨て、新しい概念をひきいてアプローチしようとする外交であった。背骨が全く座っていないかのような感覚を抱かせるものである。即ち、トルコは良心と品性のある外交を優先させるのか、それとも、現実主義的外交なのか、あるいは、サブ帝国主義的な国になることをめざしているのか?10年間を要約すれば、このようになるに違いない:すなわちこれらすべてなのだ。

与党になった当初にEUと始められた(加盟)交渉プロセスの席を、「反故にする」中間報告書を受け取った。アンカラはその興奮を失った。問題はこうだ。即ち、このことは、EUの反トルコ的態度からきているのか、それとも、経済的に好調であり、中東におけるスター国家であるトルコが、もはやEUへの興味を失ったからなのか?私には両方だと思われる。
ゼロ・プロブレムは、10年間で最も主張され、最も積極的であったが、ここ最近は、その有効性を失いつつある。長年にわたり中東に背を向けてきたトルコが、隣国やその歴史と「穏やかに」向き合うことに異論はなかった。イスラエルが思いとどまらせられた地域で、誰もトルコの活動を止めさせることは出来なかった。それにもかかわらず、今イスラエルとシリアを和解させなければならないのに、トルコは両国と断交している状態にある。勿論、ガザ攻撃の後、イスラエルとの関係が切れ始めた「ワン・ミニッツ」事件(註:2009年1月のダボス会議でイスラエルのシモン・ペレス大統領のガザ攻撃に関する発言に対し、「ワン・ミニッツ(ちょっと待て)」を繰り返し批判した出来事)により、アラブ世界において、ナセル以来最も人気を博した指導者となったエルドアン首相が、マヴィ・マルマラ号事件で、イスラエルと断交したことは当然のことだった。しかしながら、トルコは(イスラエルとの和解の)諸条件に、謝罪と補償の他に、ガザの封鎖が解除されることを付け加えたことよって、中期的なイスラエルとの関係断絶を行った。中東における政治は、一方向的な誠意で進むものではない。トルコでは、全体のプロセスを明らかにするという過ちに陥った。トルコは10年間で多くのことを学び教えてくれたが、中東においては、デビューしたての、そして「経験不足」のプレイヤーだった。つまり、(中東という)グラウンドは滑りやすく転げやすいのだ(足を取られやすいのだ)。

アラブの春は「ゼロ・プロブレム」を(文字通り)ゼロにしたのだった。

エジプトとチュニジアでの動乱において、「民衆」側についたことは正しいアプローチだった。リビアでは(一転して)現実主義的政治が動き出した。トルコがこの地域で株を上げたこと、モデルとして、あるいは手本として取りあげられたことが知られている。こうしたことはアラブ諸国の各首都のあらゆる場所で感じられた。人々の感情をくすぐる状況である。トルコがイラクの占領に関わらなかったのは正しかった。シリアでは正しい戦略が誤った戦術と共に推し進められた。人道的アプローチに誰も異論はない。反体制派と手を結ぶこと、また、その(行動の)性急さは、トルコ史上「初」であった。戦術的な誤りの数々は複数の問題を生み出した;すなわちイラン、ロシア、イラクが考慮されなかった。わずかながら後退してみて、それがわかったのだ。すなわち、トルコは、アメリカのオバマ大統領が「(中東の)ゲーム」に参加するまで、イランの核問題において重要な働きを示していたのだ。トルコはその「力」を、この地域において全方位的にまた同じ距離感を保ちながらアプローチし、関係を構築出来たことで、確かなものにできたといわれている。アラブの動乱においてトルコが手にした「ムスリム同胞」というメリットは、シリアにおいてはスンニーという側面での感情を増大させてしまった。

この10年間で最も重要かつ後れを取っている外交融和策は、何をさしおいてもイラク・クルディスタンとの関係である。シリアのクルド人達ともこうした取り組みをすべきである。2002年にその一歩を踏み出そうとする一方で、「まず国内(のクルド問題)を解決する」とのスローガンを優先するという考え方があるということは、トルコにおけるクルド問題を解決しないうちには、道は開かれないことを明らかにしている。
10年間で、(トルコは)良心とモラルそして現実主義的政治の間を揺れ動いているように思われる;すなわち、シリアとスーダンとではその対応に異なるアプローチが見られた。外務省幹部が述べたように、「必要に応じて、現実主義的政治が優先される」との見解が、もう動き出しているのである。アルメニアとの大きな興奮を生み出した融和的また議定書作成のプロセスは重要であった。しかし、その後「どうしてそうした行動(融和的アプローチ)がとられたのか」さえ、理解できない状況になっている。アゼルバイジャンの反発は計算にいれていなかったのか?
トルコは、多面的で、同時に一つ以上の局面で外交を繰り広げるために、力を割いてきた。今日振り返ってみるならば、トルコの国外における影響力には議論の余地はない。しかしながら、全員と話し合い、全員と関係を維持するという外交のあり方を続けるなら、何らかの成果を出す必要がある。アメリカとは3月1日との覚書によって距離が生まれる一方で、現在ではオバマ大統領がアプローチを変えたことにより、問題が解消されている。ミサイル防衛計画やシリア問題に関するNATOからの期待、そしてEUとの良くも悪くもない関係は、本来の主軸がずれていないことを示す。10年間のプロセスの最後において、もはやあらゆる行動基準にアメリカを求める必要はない。トルコは、自身のイニシアチブによって行動することを望んでいるのだ。すなわち、「ネオ・オスマン主義は時代錯誤的目論見である。サブ帝国主義という表現がより適切であるようだ」
勿論、ヨーロッパ「コンプレックス」をもちながら、中東の星であることは、トルコ人の自尊心をくすぐる。悪いことではない、オリエンタリズムが矛盾使用されなければの話であるが。トルコがどちらを向き、どの方向へ向かうかは、今後10年ではっきりする。何故なら、この地域は再編成の真っただ中にあるから。

(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介
されています。)


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翻訳者:濱田裕樹
記事ID:28119