Fuat Keyman コラム:HDPとクルド問題解決プロセス・新憲法・民主主義

2015年11月04日付 Radikal 紙
公正発展党(AKP)が圧倒的与党としてどのような政治手法をとるのかという問いと同様に、「人民の民主党(HDP)がこの新しい会期に、自身をどのように位置づけるのか、そしてどのように振る舞うのか」という問いこそが大変重要である。

2015年11月1日の選挙は2002年11月3日の選挙と似た選挙になった。

11月3日の選挙はトルコで"政治的地震"を巻き起こした。設立されたばかりのAKPが圧倒多数の政府を樹立するような選挙の勝利を得た一方で、野党を始め一つ前の国会で議席をもっていたすべての政党は、10%の投票率制限以下にとどまった。

この激震は、ススルルク事件、貧弱な連立政権ら、不正などの問題を恐れ、心配と不安に駆られた有権者が「統治されてないトルコが、きちんと統治されますように」といい、政治的安定を選び、AKPを選択したものだった。11月1日もある側面では11月3日に似た状況で、有権者が心配、不安の感情によって行動するような状況で行われた。

スルチとアンカラでの「虐殺」事件、南東アナトリアで地域支配/統治をめぐって争われたPKKとの戦い、ISによるテロ、シリアとイラクの崩壊した諸政府、我々の国境地図を変える可能性のある地政学的展開、民主統一党(PYD)を核に我々が議論しているシリアのクルド人が地域の重要なプレイヤーとなり、さらには連盟者になったこと、経済の不安定さとリスク、以上6月以降次々に起きたこれらの展開がトルコ全土で恐怖-心配-不安を軸に、ある深層での波を産んだことを、11月1日の夜、我々は見た。

AKPですら彼らの予想が少なくとも5ポイント上回る得票率に達し、全野党が負けるという選挙の結果が表れた。AKPが与党の座に居続けることになり、強力な政権でトルコを統治し、「新しいトルコ」という概念が頻繁に使われ、大統領制の議論が再び始まる2015年~2019年の期間が始まった。
この期間において、おそらく、民主主義者行動党(MHP)をはじめとする野党は、内部の問題と党内の勢力争いによって身動きがとれなくなる。トルコ政治は「強い政権-弱い野党」という時代へと回帰することとなる。

その一方で、2002年11月3日の選挙後の時期とは異なり、11月1日後の議会には四つの政党いて、その4党は国民の95.7%が声を代表しており、さらに、HDPが第三政党であるという構造をもつ。これらの点からみて、AKPが与党としてどのように政治手法をとるのかという問いと同様、「HDPが新しい会期に、自身をどのように位置づけるのか、そしてどのように振る舞うのか」という問いこそが大変重要になっている。

なぜなら、「新憲法」作成プロセスが再び議論されること、そして、これに関係し「(クルド問題)”解決プロセス」が冷蔵庫からとりだし再び活性化されること、この2つが、AKPが急速にすすめていく重要な作業領域となるからだ。

おそらく、この2つの両方で、HDPは、ひとつには議会の第三政党として、ひとつには地域の重要な政治アクターとして、さらには、クルド問題の主役として、「鍵となるアクター」の位置を保っている。

では、HDPはどう振る舞うだろうか?11月1日後の時期に、自身をどう位置づけるだろうか?新憲法と(クルド問題)解決プロセスにおいて「鍵となるアクター」となれるのだろうか?この問題への答えは、今日の段階では、わからない。

HDPが、6月7日と11月1日の選挙結果をどのように考えるかは、この点から非常に重要となる。.
トルコの有権者は、11月1日の選挙で、HDPを罰する一方、他方でHDPが10.8%の得票率で国会に残ること、さらに第三党となることを欲した。
HDPは、単にトルコ西部だけでなく、より重要な点は、南東部や東部でAKPに票を奪われた。

強調しておこう:ディヤルバクル、ヴァンをはじめとする中核都市をはじめ、すべての地域で、クルド系有権者は、暴力や、「民主的自治」の名のもとに行われた(PKKによる)地域支配の試みに、はっきりとノーをつきつけた。トルコのなかで、ともに生きる意思と、クルド問題に対し民主的な解決策を求めていることを力強い形で示した。HDPに対し、「この原則のもとで、今なお、議会と政治分野で私の(かわりを演じる)主役は、君だ」とのメッセージを与えた。

HDPは、6月7日に、「クルド問題の主役であることと、トルコの政党であることを両立させること」を(実現可能だと)確信させるやり方で設定したがゆえに勝利した。11月1日に向かうプロセスでは、この両立のうちの、トルコの政党であるという片足を忘れ、それを活用しなかったために敗北した。

強調しておこう。もちろん、11月1日の選挙に向かうプロセスは、HDPにとって公正なものではなかった。HDPの事務所は襲撃にあい、メディアはHDPの(選挙活動を)報道せず、ディヤルバクル・スルチ・アンカラでのテロで多くのHDP支持者の市民が命を失った。

しかし、それと同様、HDPが11月1日の選挙で体験した敗亡の主要な理由は、第一には、トルコの党であるという主張がどれだけ重要であるかと理解していなかったこと、第二には、HDPが、PKK-KCKによって行動を制限され、二級の重要性しかもたないアクターの地位に落とされたことだった。

このため、HDPだけでなく、PKKとKCKも決断しなくてはならない。トルコの中で武器をすて、「解決プロセス」と政治(的解決)に戻るか、あるいは、武力衝突を続けるのか。
11月1日後の時期、HDPの選択は、単に新憲法の制定と解決プロセスの位置だけでなく、同時に、HDP自身の政治的将来を決めることになる。私としては、第一の選択肢を選ぶことを望む。


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翻訳者:西田夏子
記事ID:39125