トルコ文学:ブルハン・ソンメズ氏新作はマジックリアリズムで描くアナトリアの物語

2021年03月11日付 Hurriyet 紙

ブルハン・ソンメズ氏は新作小説『石と影(Taş ve Gölge)』において成熟し、卓越をした非常に重層的なナラティブのスタイルで今回は、デングベイ(クルド人吟遊詩人)の伝統と執筆文化を邂逅させている。私たちの手元にあるのは、マジックリアリズム・スタイルの、オリジナルで成功を収めた解釈である。

1984年の12月にメルケズエフェンディ墓地において、墓石職人であるアヴド氏の小屋に私たちはいる。住まいのない孤児として育ち、その子供時代を都市から都市へと渡り歩きながら過ごした全ての都市に異なる言語で対峙をした男だ。墓場の脇のあずまやに犬と一緒に生活をしている。

その日に埋葬された死者へ、どのように墓石を作ろうかと考えていた時に私たちはアヴドと出会うのである。仕事は難しい。なぜなら棺桶の上に彩色された一枚の織物そして7人の名前が書かれた紙が存在するのだ。アリ、ハイダル、イサ、ムハンメド、ユヌス、アデムである。

7人の名をもつ男たちは、かつての兵士である。1938年にデルスィムの兵士の反乱の際にフラト川の岸で記憶を失った状態で発見され、その後に数多くの場所を行きかい、様々な宗教に入信し、また数多くの島を渡った。宗教も、その名前の意味も残らなかったのだ。また、アブドに対して、その中に大きな日記を残したのである。その中の大きな日記と共に。

同じ夜のこと、アヴド氏の元には「生きた」訪問者たちもまたやって来た。まずは傷を負った一人の少女、レイハンが扉をノックする。その後にきた、イハンの後を追っ掛けているのは警察たちである。しかしながら、犬を失ってしまうかもしれないとなるとアヴドはレイハンに手を貸そうとはしない。なぜならば、レイハンは、アヴド氏の人生の霧の間から出てきてやってきた影のうちの一つであるからだ。
そしてこのようにして「石と影」の物語は始まるのである。その後で、その他の人物たちが一人ずつ舞台に登場する。デルスィムの攻撃に参加をしたアデム・ギルト大尉、婚約をしているミスカル・ドゥルス氏、アブド氏に手を貸した墓石名人たち-マルディン出身のジョセフ・ウスタ、ウルファ出身のディクラン・ウスタ、ハイマナ・オヴァス・マンションのギョルメズ村の美しい少女であるエリフ氏、村の羊飼い長の息子であるバーキ氏、村の新たな地主でありエリフの婚約者であるミカイル、高名なアラベスク歌手のペリハン・スルタン、地下世界の女王の一人であるセイラニ、そして過去の魂を持っているブロンドの水兵であり工場作業員のヴェヒト・コチュシャンル氏、更にはメルケズ・エフェンディ・ジャーミーのイマームであるムヒッティン、レイハンの後を追いかける警察署長のコブラ、レイハンの近しい友人であるスレッヤ、アブド氏の孫であるバーキー、ミスカルの孫であるミスカルそして二匹の忠実な犬であるハヴァルとトテヴェである・・・

■マジックリアリズムの特別な解釈

彼らの物語の数々とともに私たちはアナトリアの外へと、クドゥス、カイロへ、ローマへと続く長い道のりへと旅出るのである。時代といえば、20世紀を舞台とするのと同時に、登場人物たちへの言及と共に、更に長い時間へと広がるのである。運命が交錯する。物語は決してスムーズな流れで進行するわけではない。人々の意識と共に、昨日そして今日の共時性を提示する形で時間がそれぞれに出会うのである。ちょうどその後にやってきたときにアヴド氏の精神におこったことのように。
「闇が深まったようだ、嘆きは次第次第に増していった。広い翼をもつ風が靡いた。糸杉の枝がうなりをあげた。一体何の傍にあるのかということが分からないフクロウが鳴いた。湧き水が流れたところから再び足音が聞こえた。誰が誰のことを見ているというのだろうか?子供時代がアブド氏のことをだろうか、もしくはアブドが生涯に渡って子供時代のことを追いかけ続けたのであろうか?」
様々な異なる時代に、異なる土地において、その中心に異なる人々が登場し続ける物語とともに作られたのである『石と影』は。そして全ての章において、同心円を描きながら中心のテーマが繰り返されている。ソンメズ氏は、各キャラクターたちをそして彼らと共に読者たちをこちらからあちらへと引っ張りながら、一つのテーマからその他のテーマへと移っていき、しかしながら毎回中心となる物語とは無理なく接合をさせている。個人的なドラマの数々が提示された物語の数々では、人々が苦闘する様々な種類の問題がその都度、中心に据えられる。『石と影』は多元的かつ非常に重層的な小説なのだ。
 ブルハン・ソンメズ氏は、既に卓越したものとなったナラティブのスタイルでデングベイの伝統と執筆文化を一堂に邂逅させたのである。ある人物の時代には、過去の時の雰囲気をもたらす一つの物語の風が吹き付ける。誰かの時においては現代の悲痛な真実が表出している。しかしながらどのスタイルへと向かったとしてもその味わい、トーンを、リズムを失うことがない言語が存在している。
レファレンス、比喩、イメージのルートを介して説明をしたいと思うものを取り囲み、何十もの痛みの中で人間性、友愛、そして美学を獲得したこのような言語とともにソンメズ氏は、マジックリアリズムの独自性がありそして非常に成功をした解釈を提示しているのだ。
 ソンメズ氏は、小説『イスタンブル・イスタンブル』において、イスタンブルの都市を用いた。『石と影』においては、更に広い地理を舞台として、より大人数の人物を擁している。まるで、その他の小説においておこなったかのように「運命をその他の人物たちによって宣告され、エゴがなく、その外側に落ちてしまったために世界の代償を支払わなければならなくなった。それにも関わらず、の人生へしぶとくしがみついている」人々の人生における短くもしかしながら、印象的な数々の場面が提示されているのだ。小説では、人々の運命はいつも交錯しないとしても、共通の歴史的な流れによって明示されている。ソンメズ氏が提示使用とした別の地平における様々な歴史が、それぞれにとって遠い地理と時が組み合わさっているのである。
私は歴史の繰り返しに言及する事はしない、そして歴史は勿論のこと機械的な形で繰り返されることはない。しかしながら、アンドレアス・ホイセン氏(訳注:ドイツの比較文学者)が著作『黄昏時』において述べているように、同一性を帯びた出来事が(歴史を)作りあげるのである:振る舞いの同一性、態度の同一性、リスクの同一性である・・・
つまりはこの同一性をソンメズ氏は書きつけているというわけである。:デルスィムの反乱を、5月27日を、タラト・アイデミルの絞殺を、トルコ労働者党(TİP)の結成を、3月12日を、デニズ・ゲズミシュ氏の絞殺刑、9月12日を、9月12日の絞首刑を、スィヴァスの殺人事件をそして大小様々の数多くの政治・歴史的な要素が小説の中に織り込まれているである。とにかく『石と影』は歴史、そして政治的な特徴によって要約することはできない。小説の登場人物たちは、私が言及している歴史的な様々な各時代の中に生まれたわけではなかったのだ。この歴史的な各時代において必然的に―それぞれが個別の事件であるが故に-各物語に加わっているのだ。ブルハン・ソンメズ氏が実際におこなったことというのは、広範な歴史を、特には共和国の歴史を、その広いパノラマを描くという事であり今日の具体的な歴史の前を提示することなのである。

■逃れられる場所の探求の哀しみ

イーグルトン氏(訳注:文芸批評家のテリー・イーグルトン氏のこと)の表現によれば、「今日の具体的な歴史の前には、小説においては人物とは、一つの対象ではなく、一つの主体として、さらに言えば行動する主体として位置づけられている。」
ある小説においては、今日の歴史以前の時は、人間の具体的そして実践的な活動の文脈において真実味を獲得する。これを担保するために作家は、各事件と人物の間に有機的な関係性を作り上げなくてはならず、小説は各キャラクターの人生における―物質・精神的な―転換を提示しなければならないのだ。そして『石と影』において見受けられることもまた丁度このようなことなのである。
 その周囲を覆い隠す歴史・社会的な状況下においてその人生に形を与えようと努力をする数多くの人間そして、キャラクター達に対してソンメズ氏は精緻に命をもたらしている。
しかしながら「石と影」の実際の成功は、多元的な読みへと開かれる深さにおいて、読者を人生そして死、嘘そして真実、愛、友情、犠牲、故郷の喪失といったことであったり、戦争、暴力そして難民たちが生み出した痛みなどという普遍的なテーマについて思考をするようにと招いている点にある。
『石と影』とは、主役であるアヴド氏の、そしてトルコ人、クルドジン、アルメニア人、ギリシャ人の―数多くのキャラクターたちが壊れた世界から逃れられる、壊れていない世界探しの悲しみ、人間の大きな悲劇なのである。彼らは『ガヴソノ(訳注:Gavsonoはシリア方言で難民の意)』なのである。つまりは難民であり自身の土地を失って、その他の土地へと振り回された人物であり、風の前の葉のようなのである・・・なぜならば土地を失うということは、記憶を失うということである。人によってはこの逆のことが起こる、まずは記憶をその後で土地を失う。風に覆いつくされた状態で、あちらからこちらへと巡るのだ・・・

■『石と影』
ブルハン・ソンメズ
イレティシム出版社、2021年
328頁、41TL


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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:50819