カイロ:映画と現実の狭間にある都市の姿(10)

2022年04月29日付 al-Quds al-Arabi 紙

■想像されるカイロ:映画と現実の狭間にある都市の姿について

【ムハンマド・トゥルキー・ラビーウー】

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ポストモダンの状態とは、ディヴィッド・ハーヴィーが考えるように、流動的な蓄積や源泉と結果の多様化、意思決定の断片化と結びつく。「アスファルトの悪魔」の運転手らの場合、マイクロバスの運転手のコミュニティは自己資金調達と利益の蓄積に基づく新しい金融の一部門を構成しており、これが彼らに力を与えている。運転手らは金持ちではないかもしれないが、輸送の経済の一部門をまるごと支配している。多様性もまた、ポストモダンの一側面を為しており、そこに権力の中心や集中は存在しない。1990年代には、輸送部門にオートバス、マイクロバスの運転手、タクシーといった複数の源泉が現れた。したがってこれらの映画では、都市すなわちカイロは権力の支配を受けていないようにも見えるし、統治と公共空間の運営をめぐり国家との交渉が行われている複数の部門を有しているようにも見える。

同書にはまた、ここで紹介したものに劣らず重要な研究が収録されている。例えば、ハーリド・アドハムによるエジプト映画におけるマクハーのイメージの研究や、ムハンマド・イマード・ファティーハによる千のミナレットと100万のパラボラアンテナの街についての章(訳注:カイロは「千のミナレットの街」と呼ばれる)がそうである。同章は、映画に見るようなカイロの人々の生活におけるイスラームの役割を論じている。そのほかにも同書には注目と賞賛に値するタイトルが並んでいる。

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翻訳者:下宮杏奈
記事ID:53989