イラン:政治的「聖域」――ヘゲモニー指標としてのヒジャーブ(1)

2022年09月29日付 al-Quds al-Arabi 紙
【ムハンマド・サーミー・アル=カッヤール:本紙】

ここ数日のイランにおける民衆の抗議運動は、女性の人権をめぐるリベラリズム―左派の主要なアプローチに対して多くの問題を投げかけている。道徳警察の手によってマフサー・アミーニー氏が殺害されたことへの抗議として、騒乱がイランの諸都市に広がった。この騒乱においてヒジャーブは、着ようが脱ごうがすべての女性に選択の自由がある、個人的な事柄だとはみなされていない。そうではなく、ヒジャーブは燃やし粉砕されねばならないような権威主義的象徴だと考えられている。衣服が大衆の政治に関連するものとなったとき、すなわち権力に対して肯定的であれ否定的であれ、路上で開かれる衝突に関与する集団ごとに拒否したり受け入れたりできるような領域になったとき、「個人の自由」についての議論は本来の論点である政治的・社会的な文脈から切り離されるようになる。

リベラリズム、特に西洋諸国において「左派」と呼ばれるサークルの回答は、この問いを引き起こした問題の理解からほど遠く、パッケージ化されたスローガンや文言に終始しているように思われる。その最たる例が、ヒジャーブを純粋な「フェミニズムの」問題とみなしていることだ。すなわち、女性だけが関係する論争の一側面であるとみなしている。彼女たちを、イスラーム主義であれ世俗主義であれ、家父長制ヘゲモニーから離れて自分たちの衣服を決める自由を手に入れるための独立した政治的アイデンティティーであるとみなしているのだ。西洋諸国におけるヒジャーブ支持者たちにとって、イランの抗議運動が大きな苦悩を生み出したことはいうまでもない。ヒジャーブを燃やすことは、西洋に広がるイスラーム化過程の一側面にしか目を向けないイスラモフォビア的な傾向を強めることになるからだ。

(2)に続く


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翻訳者:藤原路成
記事ID:54152