娘と孫はどこへ・・倒壊ルネサンス・レジデンスの瓦礫から見つからず

2023年03月26日付 Hurriyet 紙

ハタイ県アンタキヤ郡にある250世帯からなるルネサンス・マンションで多くの人々が犠牲となった。このマンションに住んでいた教員であるビライ・ベシェリキリさん(35歳)とその娘ナゼンデ・ディラ・アチュクギョズさん(6歳)は地震の日から消息がない。メフメト・べシェリキリさん(62歳)は17日間瓦礫のそばで待機し、彼自身の娘と孫の捜索のためDNAの検体を提供した。地震後にはブルサに避難し、遠方からの連絡を涙に暮れながら待っている。メフメトさんはアンタキヤで娘と孫の墓を用意したと話し、「私の娘たちの墓は現在ありますが(中に)いません。せめて片腕、片脚、指一本でも出てほしいです。それでも満足です。」と話した。

カフラマンマラシュを震源とする地震の影響で、ハタイ県アンタキヤ郡エキンジ地区で2013年完工の『天国の一角』というキャッチコピーで売り出されたルネサンス・マンション(12階建)も倒壊した。総戸数250戸からなるマンションで多くの人々が亡くなった。小学校教員であるビライさんは5年前夫と別れ、4年前に一階の物件に越して来て娘のナゼンデさんと一緒に暮らしていた。ビライさんと娘のナゼンデさんは、瓦礫撤去作業が17日間で完了したルネサンス・マンションの多数の行方不明者の中の1人だ。ビライさんとその娘について、地震が発生した2月6日から今日まで消息は得られていない。ビライさんの母ヌライさんと父のメフメトさんも地震を「75年通り」にある7階建のユクセル2マンションの3階の部屋で経験した。地震で家に重大な被害を受けたメフメトさんは当時を次のように説明した。

「妻が『メフメト、起きて地震よ』と言いました。私が起きた時、軽く、このように揺れていました。揺れは続き始めました。次いで、絶え間ない騒音と共に何かしらが崩れたり落ちます。私たちは『ああ、もう終わりだ全て終わりだ。』と言いました。あれほど恐ろしい音がするのですから。というのは何かしらが落ちて壊れているのです。あの瞬間には何もできません。説明できる様なものではありません。あの恐怖を説明する事はできません。あの壮絶さを、凄まじさを説明できません。アッラーよと言いました。終わってくれ、そうでなければ私達が終わりでしょう。壁などが割れました。壁などは何も残りませんでした。要するに私達の部屋から隣人が見えます。外に出ました。みんな外にいました。みんな叫んでいます。外から音はしますが、誰も見ることができないのです。雨、寒さ、地震のあの衝撃。」

■「崩れると全く思っていませんでした」

メフメトさんは妻と一緒に家から出た後、すぐに娘と孫の住むルネサンス・マンションに行き、見た光景にショックを受けたと話し、「ルネサンス・マンションと私達の家の間は500〜600mです。道すがらもビライ、ビライと叫んでいました。一帶が崩れ落ちていましたが、私はルネサンス・マンションが崩れると全く思っていませんでした。なぜならルネサンス・マンションは頑丈で堅固だと聞いていました。私はあの光景を見てどのような災難にあったのかと驚きました。私の娘は1階にいました。その下には駐車場が、その下には駐車場がありました。駐車場がありません。あの入り口部分の駐車場がありません。そこへ家が崩れている状況です。12階が全部前方に倒れた状況です。妻は私に『なぜ1人で(帰って)来たの?』と言いました。私は『どこも崩れ落ちている。一面廃墟だ。周りは最後の審判の場のようだ。皆それぞれ助けを待っている。そこまで行くことができなかった。』と言いました。(何も)言うことができませんでした。」と話した。

■「残念ながら出なかった」

メフメトさんは瓦礫のそばからひと時も離れなかったと話し、以下の様に述べた。

「私達は瓦礫のそばから離れませんでした。生活の場はそこでした。だいたいにして家は無くなっていました。家と言えるものはありません。もっと率直にいうと、アンタキヤには家も仕事場もなかった。私達は17日間瓦礫のそばで待ちました。今日出るだろう、明日出るだろう、あれが起きるだろう、これが起きるだろうと言いましたが、残念ながら[娘たちは]出ませんでした。1台の戦車の後ろに、壁と戦車の間に遺体袋が到着しました。そこに置き始めました。軍人は『来て下さい。皆さん遺体を確認下さい。』と言いました。行きましたがいません。行きも帰りも希望はありません。私達は娘たちを見つけられませんでした。外に出る時、他に待っている人たちに『私の(探している)人ではありませんでした。どうかあなたの(探している)人でありますよう。』と言います。その人が通って見つけて私に言う事には『いいことがあなたにもありますように。』結婚式で言うことを遺体の許で言い始めたのです。」

■「DNAの検体を渡して35日経ったが未だ連絡は無い」

メフメトさんは病院と墓地を探し、多くの遺体を確認のために見たと話し「私は墓地に行きました。病院に行きました。私のDNAの検体を渡しました。埋葬をした人はスライドガラスで遺体の指紋とDNAも採取してました。口内から唾液を採取しまします。私達も同じことをして渡しました。スライドには1000人余りの人の分がありました。いません。出ません。その後妻も私の1週間後にDNAの検体を渡しました。私はDNAの検体を渡してから30−35日が経ちました。未だに連絡はありません。娘ビライも孫ナゼンデも、ルネサンス・マンションの100人に近い人々の消息はわかりません。行方不明、いなくなりました。これは本当にとても悪い事です。行方不明とはこの様な事なのです。本当に難しい。大変巨大な場所が15〜16日目で片付けられました。17日目にはほぼ痕跡がなくなりました。17日目の終わりにマンションの元を離れました。17日目の夕方にそこから離れたのです。」と話した。

■「墓は空のまま」

メフメトさんは、地震から17日後、妻と一緒に[ハタイ県内の]レイハンルにある親族の元に、そこからアンカラへ、最後にはブルサに行き青年スポーツ省附属県部局トルコオリンピック準備センター・アスリートキャンプ教育センターで泊まり始めた。毎日娘と孫の連絡が来ると希望を抱いて暮らしていたが、生存に関する希望は消えたと話した。

メフメトさんは涙を流しながら娘と孫の墓地を用意したと話し、「希望はありません。なぜないか?今行方不明だとしてどこへ行くでしょうか。病院に行くでしょう。病院はくまなく捜されました。電子政府のサイトに娘たちの写真をアップロードしました。病院に関するページが作られました。そのページに写真がアップロードされます。子供は(自分の)名前を覚えていないかもしれません。ですが少なくとも写真はあります。写真はチェックされているのでしょうか。45〜46日が経ちました。あれから何もありません。連絡はありません。外にいるとすれば既になんとかして私たちに接触します。娘たちの墓は現在ありますが、中にいません。自分の手で娘たちの墓を掘りました。まして墓掘りは『お兄さん、親娘なんですから二人一緒に埋められます。』と言って墓を少し広めに掘りました。6ヶ月前に義理の母が亡くなりました。彼女のそばに、そこを掘りました。現在墓は空のままです。少なくとも墓があって欲しいです。私達は亡骸を欲しかったのです、亡骸は無かったです。出て来ませんでした。私達は少なくとも片腕、片脚、指一本でも出てほしいです。それでも満足です。人々は私達に『これから何をするのか?』と聞きます。何ができるでしょうか。何も考えられません。あの子たちはどこにいるのでしょう。あの子たちはどこに行ったのでしょう。病院にいません。無人の墓にいません。私達はあの場で終末の日を体験しました。あそこにいた全ての人は終末の日の一幕を経験しました。敵の元でもこれ程悪いことが起きないように、ということわざがあります。信じて下さい、私達はこのような災害を経験したのです。」と話した。


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翻訳者:竹田史佳
記事ID:55302